物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

物語について

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過去に書かれた僕の映画や小説の感想を読んでみると、僕が「物語」に求めているものが何なのわかってきた。僕が「物語」に託そうとしていることが少しづつ浮かび上がってきたともいえる。
託そうとしているものは「潤い」だ。


つまるところ、僕は自分自身の空洞を「物語」で埋めたがっている。ようするに、自分に持っていないものを虚構に委ねているように見えたのだ。現実の世界で体験することができないモノ。それがなんであれ、伽藍洞な自分を埋めたがっている、隠したがっている。自分が「空虚」なんだと自分で理解してしまわないように。空虚な自分に卑屈になってしまわないように。


物語の世界はどんな人間でも逃げこむことができる素晴らしい世界だ。現実と虚構の狭間に広がる無限の世界。それは今もなお、僕を現実に繋ぎとめてくれている。
だが物語を求め続けても僕は決して潤うことはない。潤すことができようともそれは一時的なものであって、しばらくするとまた渇きに支配される。どうあがいても「外」の物語で自分を埋め尽くすことに終わりはないのだ。
―――例えるならば海水を飲むようなものだ。飲めば飲むほど渇きが広がり決して潤うことはない。
自分に足りないものを外部から欲し続けている限り、その渇きは潤いなき地獄巡りだ。この世界は混沌としている。この苦悩に満ちた、どこか曖昧な、つかの間の夢のようなこの現実の世界。それは揺らぎ霞む霧のような―――


そんなことを思いつつも、僕はこの世界を肯定している。この矛盾に満ちた、真理も何もかも存在しえないこの世界を肯定している。肯定したうえで―――反抗する。
渇きが渇きのままならば、内から潤すしかないのだ。内から湧き上がる源泉によって。
だから僕は「物語」を創る。自分の「物語」を。自分の内にある、自分の求めている世界を創りあげることが僕の目的なんだ。それが薄く軽く空虚だと蔑まれたとしても僕は物語を創り続けるのだと心に決めた。
今まで、そして今も、僕は「物語」に助けられてきた。それがたとえ、誰かに蔑視された中身のない薄っぺらな娯楽作品だとしても。それらは僕にとって大切な存在だ。


物語に対する蔑視は遥か昔から在り続けてきた。その嘲りはおそらく尽きることがなく、人が生き続ける限り存在するだろう。
だが、どれだけ酷評され非難されようとも、「物語」はその障壁、時間、空間を超越し、今もなお僕を楽しませてくれる。今もなお現実に繋ぎとめてくれる。そうして考えてみると、ブログもいわば「物語」そのものだ。一つ一つの記事は小さな断片でしかない。しかしそれらを点と点で繋ぐと自分の線になり、一つの形となるのだから。

雑で歪な形でも、それはとても美しい。
だから、僕は全てを託すのだ。一つの小さな物語に。

幻想的でどこか奇妙な世界観の映画「シザー・ハンズ」

シザーハンズ(特別編) [DVD]
この世界観はなかなかクセになる。
少し前に観た同監督の「ビッグ・フィッシュ」がとても良かったので、このシザーハンズもきっと素晴らしいに違いないと勝手に期待を膨らませつつ鑑賞した。
相変わらず期待に応えてくれる内容だったので満足。

あらすじ

丘の上にあるお化け屋敷のような建物に住む発明家のおじいちゃんがある発明をした。それはほぼ完璧な人造人間であった。その人造人間の名前はエドワード。しかし、完全に人間になる前に発明家のおじいちゃんは死んでしまう。そのためエドワードは両手がハサミのままに生活することを余儀なくされる。それ以降、彼はひっそりと孤独に暮らしていた。
そんなある日、彼のもとにセールスウーマンのペグが訪れる。彼女は孤独な彼を受け入れ、自宅へ招き家族と共に暮らし始める。そんな中、彼はペグの娘であるキムに惚れてしまう。

感想

どこか童話めいた雰囲気の冒頭から物語は始まる。
ベッドで眠りにつこうとする少女がおばあちゃんに話しかける。
「どうして雪が降るの?どこからくるの?」
おばあちゃんはどこか遠い目をし、少女にある物語を話し始めた。それが本作の「シザーハンズ」となる。

エドワードのキャラクターがどこか危なっかしく、観ていてハラハラした。だがその危なっかしさがまた良い味を出していて、危なっかしさと心地良さを同時に内包している魅力的なキャラクターとなっている。
エドワードは両手を使ってまともに食事を取ることができない。できることは切断することのみ。そんな彼はその両手を人の為に使う。庭に生えた草を刈り取り可愛らしい動物の造形にしたり、近隣の住民達の髪の毛を巧みに散髪する。そのシーンを観ているとなんだか散髪に行きたくなった。
不器用ながらも人のために努力するのは、彼の持つ優しさが故の行動だ。しかしその優しさ、純粋さを利用され彼は人間に大きく傷つけられたりもする。それでも彼は人間に騙されようとも懸命に人の役に立とうとその手を使い続ける。その姿は観ている人の心を打つ。
本作の一番の見所のシーンは、エドワードが氷塊を巧みに削り舞い散った結晶の中をキムが踊るシーンだ。幻想的で美しく、人間とエドワードとで起きていた悶着を見事に浄化している。たとえ氷を削ろうとも実際の解決には至らない。しかし彼はそんな諍いになんら興味がなかった。ただ自分にできることをやり遂げる。それが彼の矜持でもあり、夢でもあったからだ。

不器用だが真っ直ぐな彼の姿、その運命に心が動かされた。

世界の拡張

友人がオススメする小説や映画はなるべく見るようにしている。それは自分のために非常に役に立つからだ。
自分のアンテナに自信があるのならば人に頼る必用はないと思うが、自分が見たい、読みたいだけの物語だと目には見えない偏りが生じて世界の拡張ができないのではないかと僕は思っている。
決してこの偏りが悪いとは思ってはいない。むしろ自分という人間を深く掘り下げるためには必須だと思う。
しかし自分が選んだ物語だけだと、自分を深く掘り下げることはできても広げることはできないのではないか。つまり視野が狭いまま、ひたすらに自分の世界に閉じこもってしまうのではないかと危惧している。
ようするに結論をいえば、もったいない。

昔の僕はそれに関して身をもって痛感した。当時の僕は自分のアンテナ、感覚こそが全てだと、良書に巡り合えなくともそれは運命なんだと、一種の開き直りをもってして本を探して読んでいた。誰の意見にも耳を貸さず目を向けず、自分の世界に没入しきっていた。その時はたしかに良い本にも巡り合えたし、悪い本にも巡り合えた。それは今も僕の中で大きく頼りになっている。
だがそのまま続けてくると、どこか新鮮な感覚が薄れてくるような、頭の中が飽和するような感覚が脳に押し寄せてくるのをひそかに感じていた。
このままではマズイのではないか。そう危惧した僕は、試しに友人がオススメする本を読んでみることにした。
タイトルは「涼宮ハルヒの憂鬱
涼宮ハルヒの憂鬱
今となってはライトノベルの最高峰といっても過言ではない。しかし当時はまだ手をつけることができないままでいた。いや、僕の感覚では読む必要がないと勝手に判断していたといったほうが正しい。
「表紙の女の子も可愛いし、せっかくだから・・・・・・」と訝しげにしつつも手にとって読んでみた。
衝撃を受けた。
こんな小説があったのか。こんなにも興奮させるのか。
読み終えたあと、電話で寝ていた友人を叩き起こし、全巻を貸してもらったのは今でも良い思い出となっている。(友人には申し訳ないが)
その時の僕は小さな世界が拡張されたような、一種のパラダイムシフトが起きていた。
そしてそれと同時に震え上がるほどの恐怖を覚えてもいた。「僕は他にもある面白い物語を見逃したまま、死んでしまうのではないか」と。
小さな世界のまま、深く深く掘り下げていったまま死を迎える。それはそれでありだとは思うが僕にはそれができなかった。
もったいない。
それからというもの僕は友人からオススメされた小説をなるべく読むようにしている。
友人との話のネタにもなるし、良いことづくめだ。

桜の開花間近、思うこと

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ブログを書き始めてから、四ヶ月が過ぎた。
一ヶ月に一度、継続報告のような記事を書いているが、これもまた習慣になってしまった。
そしてこの継続報告記事が一番書きやすいということが判明した。うーむ。
理由として考えられるのは、書く題材を決めていないということが一番の原因なのではないかと推測している。つまり、そのまま自分の思考をダイレクトに反映させているので何も悩む要素がないから、ということになる。
では、他の書く記事は悩んでいるのかといえば・・・・・・なんともいえない。どうしたら物語の面白さを上手く伝えられるのかをひたすら試行錯誤している段階ではある。そしておそらく、試行錯誤を繰り返したその先に、正解はない。ひたすら試行錯誤していくことが最善なのだと自分の中では結論づけている。例えるならば流れ行く水のようなものだ。ひたすらその環境に合うように姿や形を変えていく。そうすることで環境に適応し、流れやすいところへ流れていく。このブログも同様に、環境が変わるごとに姿や形を少しづつ変えていき、流れていく。
話は少し変わるが、最近記事を更新するペースは落ちてはいるものの、更新したいというモチベーションは上り調子だ。更新ペースが以前より落ちたという解釈ではなく、本来自分が持つ更新ペースに吸い寄せられたと解釈したほうが正しいのかもしれない。だから、あまり気にせず、気の向くままにやっていこうという考えを今は持っている。感想文を書いていて楽しいし、自分の考えを書くのも楽しい。
そして、感想文を書いていて思ったことは、その物語の面白さを伝えるには大きく分けて二つの種類があるということだ。
一つ目が感想文。自分がその作品をどう見たか。つまり、物語の内側からの視点を書くことだ。
この登場人物のどういったことがよかったとか、この物語のこのシーンがどのようによかったか。ようするに、物語をそのまま伝えるということだ。
二つ目が批評文。作品をどう普遍化させるか。つまり、物語の外側からの視点を書くことだ。
この批評に関しては、少し前に書いた書評に関してのまとめでそれなりに考えた。
「書評」に関してのまとめ - 物語好きのブログ
こうして両者を比較し、思ったことは、どちらも書き手自身の想い―――作品の「好き」を伝えることが、読み手としてはわかりやすく、作品を読みたく、見たくなる文章になるのだなということだ。
それは僕自身が他の人のブログ記事を読んでそう思ったからでもある。
結局のところ「想い」を伝えるだけでいいのだ。ただ一行だけ、「面白い」と書く。それだけ書いただけでも伝わってくるものがある。そしてそれだけでもその作品を読みたく、見たくなるときがある。
それは書き手側の想いが込められているからなのだろう。「ただ伝えたい」その想い、あるいは祈りが、人を動かすことになる。
僕もそのような文章を書きたい。
書きたいことが山ほどある。それと同時に読みたい本、見たい映画も山ほどある。これからも、ブログを継続していく。
桜の開花の間近、そう思った。

ロボット同士の戦いが熱い映画「リアルスティール」

リアル・スティール [DVD]
ロボットに感情移入しまくった。
本作はロボット同士の熱い戦いが見たい方には必見の映画だ。ロボット対ロボットの激しいボクシング。なかなかに異色ではあるのだがそれがもう熱い!かっこいい!まさに王道といっていいだろう。
そしてこの物語は家族の絆の話でもある。心に傷を負った家族を繋ぎとめるのは、一人のロボットだった。
youtu.be

あらすじ

2020年。人間のボクシングに代わり、より暴力的な「ロボット格闘技」が人気を博していた。人間のボクシングが廃れたことで、将来を有望視されていたプロボクサーのチャーリー・ケントン(ヒュー・ジャックマン)も、今では中古のロボットを使ってプロモーターとして生計を立てていた。
ある日、昔捨てた妻が亡くなったという連絡が入る。残された息子のマックス(ダコタ・ゴヨ)の養育権について、妻の姉であるデブラ(ホープ・デイヴィス)とマーヴィン(ジェームズ・レブホーン)夫妻と話し合いをすることとなるが、夫妻が金持ちであることに気づいたチャーリーは、借金を返すためにマーヴィンに10万ドルで息子を渡すと持ちかける。マーヴィンは「旅行に行く3ヶ月の間、マックスを預かってもらう」という条件付きで承諾した。

感想

ロボット好きにはたまらない映画なんじゃないだろうか。
たまらない要素がいろいろと詰め込んである。
音声認識や、操縦者の動きをトレースするロボット。一度は憧れたロボットの動かし方がふんだんに詰め込まれている。機械が大量に廃棄されている「機械の谷」もどこか胸が熱くなった。
本作は家族の交流を深めていく様子も丁寧に描かれている。ダメダメな父親チャーリーに利口な息子のマックス。その対比が面白く、見ていて全く飽きなかった。あとマックスが可愛い。
マックスが父親そっくりな面が随所に溢れ出ており、特にロボットに夢中になると止まらない所などは「ああ、これは親子だ」となんだか微笑ましくて笑ってしまった。
本作で好きなシーンは何箇所もある。二つほど挙げるとすれば、土砂降りのなか、機械の谷でマックスが「ATOM」というロボットを拾うシーンがかなり好きだ。土砂降りの中チャーリーとマックスの絆がロボットによってより深まっていく所が非常に心に残っている。
一番お気に入りの場面はマックスが「ATOM」と庭で一緒に踊る場面だ。ロボットと人が一緒になって踊る。そこには既に人とロボットの境界線など存在せず、ただ純粋に「楽しむ者」同士がその瞬間を楽しんでいるのだと心に訴えかけているように感じた。

ラストは非常に熱い展開に収束していったので最高だった。
特にラストのバトルシーンは目覚しいほどに熱く、気がついたら手に汗に握り応援していた。
「ロボットに感情移入する」それは自然な行為なんだと思う。たとえそれが、人によって作られたモノだったとしてもだ。そこには生命の垣根など存在はしないのだ。そこに魂が宿っているのならば。

余談

本作に「ノイジー・ボーイ」という日本製のロボットがでてくるのだが
http://img.sdgundamonline.jp/file/userfolder/245649/010f49acd2ba52d7cdb94fdae502f2e4.jpg

思わず笑ってしまった。
かっこいいことにはかっこいいのだが・・・・・・超悪男子とはなんなのか。小一時間問いつめたい。

読んだ本を血肉化し、自分を成長させる方法

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どれだけ本を多読し知識をいれようとも、本から得た知識が必用なとき、瞬時に活用することができなければ意味がない。
どれだけ本を購入しようとも、それを本棚に埋めるだけでは意味がない。本を買うことは、その知識を獲得するという意味ではない。
難しい本を読み終えたとき、素晴らしい知識を獲得した気持ちになって、それだけで自分も賢くなったんじゃないかと思ってしまう。だが、知識を後追いする読書では自分にとって大切な「何か」を得ることは難しい。
つまり、いつでも使える状態にある知識にこそ値打ちがあり、自在に使いこなせないのであればなんの意味もないのだ。他の人物から拝借しただけの知識はただ自分の体にこびり付いたホコリのようなものであって、決して活用できない。
一方で、確実に血肉化できた知識というものは真の意味で自分のものになる。それはまるで自分の体に循環する血液のように、明確な意味を持って、自分を支える命となる。
読んだ本を自分のものにする方法を書き残す。

読む本について意識する

本を読む前にまずこれは何の本なのか意識する必要がある。この意識には二つの種類がある。
第一に、これがどういった本であるかを意識することだ。この本は何について書かれているか、どんな分類の本になるかを読む前に意識する必要があるのだ。
というのも、これがどういった本なのか知っているか知っていないかで、読書時の思考が変わってくる。知っているだけでも知識の受容の筋道が良い方向に変わってくるだろう。
どんな本なのかを判断する簡単な方法は、タイトルや目次、軽く全体を見渡すようにページをめくることで解決できる。
第二に、本に書かれている内容が自分にとってどのように重要なのか意識する必要がある。
読書という行為は能動的行為だ。つまり、自分は何か目的があってその本を手にし読書しようとしているわけである。
目的があって読書をする以上、その本をただ読むだけではなく、自分の目的に関してどのように読むのかが重要となってくる。ただ読むだけでは結局のところ自分になんの利益も得られずただ時間を浪費するだけに終わるからだ。
したがって、読む前にはその二つを明確に意識する必要がある。

アウトプットする

書くことは考えることである。
アウトプットして内容を整理し、何度も何度も書いた文を修正し編集する。入り乱れていた知識を必用な分だけ吸収し、余分なものを削ぎ落とす。完璧な知識なんかない。常に試行錯誤することで知識を自分にあった形に変形させる。そういった編集が脳に整理を行い血肉化しやすくするようになるのだ。

すぐにアウトプットする

本を読んでいる最中、突然ある考えが脳裏によぎる瞬間はないだろうか。
その考えは現状の自分にとって関係がないのかもしれないが、後々に大きな役割を果たす時が多々ある。これは日常生活でも起こりうる現象だとは思うが、読書中でもそれが起きる。
その考えを拾えるよう、常にアンテナを広げておく。つまり、すぐにメモを取る用意をしておく準備が肝心なのである。僕の場合、Evernoteに書き残すようにしている。

誰かに得た知識を話せるようになるまで理解する

自分だけが使える知識と、他者にも共通して使える知識とでは知識の価値に雲泥の差がある。なぜならば、自分だけが使える知識だと、「自分が見たい」、「自分が得たい」ものだけしか蓄積できず偏りが生じるからだ。偏りが生じるとは間違いが生じやすくなるという結果につながる。それに対して、誰かに伝えても理解してもらえるような知識ならば、普遍性が保障できる。さらに、誰かに話すという行為はそれだけでも刺激になり、脳にとって記憶が鮮明に覚えるためのトリガーにもなる。そして誰にでも話せるようになると、知識そのものの使いやすさは断然違ってくる。

何度もその本を読む

自分が「これだ!」と思った本は一度だけで読むに済ませる必要はなく、何度も熟慮し、熟読するべきだ。
その理由は二つある。
第一に、暗記力によほど自信がない限り、一度だけの読書で必用な箇所を覚えるのは難しい。一方で、何度も必用な文章を読むと、脳がそれを重要なものだと位置づけし、記憶しようと努めだす。そうなってくると自然と記憶に残るようになる。これは脳科学の研究から明らかになっている事実だが、脳が暗記するのはそれが重要か重要でないかではなくただ単純に「接触頻度」が高いからだといわれている。
脳は「これが重要だから覚えよう」「これは不要だから忘れよう」というような記憶の方法をしないのだ。
それよりも繰り返し接した情報である場合の方が自然に記憶をするようになる。
第二に、本を何度も読むというのはもう一つ別の効果がある。
それは「同じ本を二度と読むことはできない」という事実だ。
自分という人間は絶えず変化を続けている。「記憶」「考え」「経験」どれ一つとして不動のものはない。つまり、書かれている内容が同じ本であろうと、本を読む読み手が変わることで見過ごしていた肝心な要所を拾えるようになるのだ。
特に、それが自分にとって良書となるとそれが頻繁に起き、何度でも新鮮な読書体験を味わえる。そしてその新鮮な読書体験は脳を刺激し、記憶しやすくなるのだ。

間違いなく必用な知識だけをいれる

何事にも適量というものがあり、本の内容すべてを理解し、覚える必要はない。自分にとって何が大事か、何が不必要かをしっかり問い詰める必要がある。
大量に情報を出し入れし、その中で自分に必用なものだけをろ過させる。自然と大事な箇所だけが記憶に残るようにした方が無理なく学べる。
必用な知識だけを受容する具体的な方法は、赤ペンでマーカーや、付箋の貼り付けをオススメする。しばらく時間が経って再読しても必用な箇所を簡単に発見できるからだ。

実践する

自ら行動の中で試していく機会を探し、そこで応用してみる。
得た知識を頭の中で留めておくだけでは不十分である。実際の行動の中で使える機会を常に探しだし、実践する必要がある。しっかり考え自分のものにしないと実践できない。
実践し、応用できるようになれば、それはもう十分血肉化できており、自分のものにできている。

自分を壊すように読む

知識を増やすだけでは意味がない。その知識から自分が変化するほど知識を取り込み自分を壊し、再構成する道が血肉化させるための方法だ。
「自分を壊すように読む」具体的な方法は、「著者の思考を読む」方法だ。
この「著者の思考を読む」というのは簡単に自分の中で想像するだけでは駄目だ。真の意味での思考というのは既存の考えを辿るだけに留まらず、そこから新しい思考パターンを形成する道筋にある。
すなわち、「著者の思考を読む」と同時に、自分の中にある思考パターンを組み合わせ、新たな思考パターンを作り上げる行為に意味がある。
ただし、著者の思考に飲み込まれてはいけない。著者の思考には常に疑問をもちながら、問い続ける継続が大切である。著者がどれだけ知識人であり、聡明な考えをもっていようがそれは同じだ。著者の論理の進め方を、他の可能性も含めて検討する。著者の考える論理のプロセス、感情のプロセスを追体験すると自然に自分の思考力の強化と血肉化を両方図れるのだ。


なるべく一つ一つの読書を大切にしていきたい。
本との出会いは、一期一会なのだから。

思考の基本書「知的複眼思考法」

問題解決の最初にすることは「問う」ことだろう。だが、その問い方があまりにも安直だと、安直な答えしか返ってこない。
問い方が甘いのだ。そうなると考えを深めることはできないまま思考が凍結してしまう。「問い」を上手に展開し、掘り下げていくことが思考停止にならない方法である。

本書は問題解決の手段を掴めていない人にとって最適の一冊となる。
シンプルでとてもわかりやすく、思考法の基礎を懇切丁寧に解説してある。

問題解決に対する様々な手段が克明に書かれており、なおかつ例えや実践例を交えて書かれていてとても読みやすい(理解しやすい)。
問題解決の手段に困窮している人には是非読んでもらいたい。思考法の具体的な手段が多く書かれている。特にこの本書は学生が読むべき一冊だ。間違いなく役に立つ。
著者が語る「知的複眼思考」とは字面だけを見れば小難しいと思うかもしれない。だが、実際はそうではない。複眼思考とは問題に対しての思考を一つに絞るのではなく、多角的な視点から見るための思考のことだ。つまり、見えざる常識に惑わされずに論理的に思考する(自分で思考する)ことで、求めるべき問いを見出す方法のことだ。
ただし、重要なのはあくまで「複眼思考」であって、必ず正解があるのだという発想からでは「複眼思考」は成り立たない。

本書はとても理解しやすい。 読者に情報を伝えていくプロセスを、念入りに考えているのだなと重々に伝わってきた。 本書は読者に何度も問いかけてくる。実際にある問題について思考させ、そして著者なりの思考法を読者に伝える。そうすることで思考法を比較し、見比べることができ客観的に分析ができるようになる。


第一章の「創造的読書で思考力を鍛える」は本を読むものにとって大いに役に立つ。
著者はまず、本を読む場合には批判的に読むことをすすめている。
著者はいう。知識だけを受容するだけの読書では、ただ「勉強しているつもり」になっているだけであって、決して自分で考えることにはならないのだと。知識を追いかけている読書では考えることはできないのだと。
そこで著者は、批判的読書のコツとして20のポイントを挙げている。
その中でも重要なポイントを4つ挙げる。

  1. 著者を簡単には信用しないこと
  2. 著者のねらいをつかむこと
  3. 論理を丹念に追うこと、根拠を疑うこと
  4. 著者の前提を探り出し、疑うこと

このように、思考の技術やポイントがとても分かりやすく書かれており、なおかつ理解しやすい例を使って思考を促したりと、思考の基本書として最高の一冊となっている。僕自身も考えるにあたっての足掛かりとなった。特に、「常識」や「前提」を浮き立たせる考え方は大いに参考になった。
本書は自分なりの思考法を見つけ、編み出したい者の羅針盤となるだろう。