言葉という凶器
言葉とは凶器だ。間違った使い方をすれば人を傷つけ切り刻む。
この世の中にはあらゆる言葉が飛び交っている。
一日に決して言葉を見ないという日はないだろう。
それほど言葉とは溢れているのだ。
そのなかで、言葉を大切に使わないまま自分の感情のみを言葉にすると、思わぬところで人を傷つけたりする。
例えばLineのいじめとかもそうなんじゃないだろうか。
他にもこういった例がある。
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これはいろいろな事情が絡まりあっていて、偏見を生み出してしまうと結論づけた結果なのだろう。
そう、言葉が凶器になるのだ。
ネットや新聞、テレビでもそういった凶器が溢れているように感じるし、きっとこれからもこういった問題が依然として続くのだろう。
僕はなんとなく、その在り方ではよくないんじゃないかと思っている。無意識の内に傷つけてしまうのはどうしようもないのかもしれないが、それでも目指すべきところはあるはずだ。
「知らぬ間に遠くにいる人を傷つけているかもしれない」
そう自分に問いかけ、意識することが大事なんじゃないだろうか。
その言葉を発信する前に、一つ立ち止まって見つめなおす。
この表現は適切だろうか?その呼称でいいのだろうか?間違ったニュアンスとして取られるのではないのだろうか?
ひたすら熟考し自分に問いかけ、言葉を紡ぐ。
そうすれば少なくとも最小限の被害に収めることができるのではないか。
しかしあまり意識しすぎると、その高すぎる意識が自分でも理解できぬまま自分を苦しめることもある。
そうなってくると、もはや自分が何を求めて書いているのかわからなくなる。
何のために書くのか、と。
何のために書くのか―――理由は人それぞれあって、十人いれば十人とも違った答えが返ってくるだろう。
その中で、「批判をするためだけに書く」というのは僕は良くないことだと思う。
間違っていることを正すには批判が手っ取り早いし、書いた本人はすっきりするだろう。
ただその言葉で傷つく人がいる。というのも事実だ。だからそのためには批判だけに留まらずに、そこから道を示すべきだ。
―――価値観の違い。いってしまえばそれだけだが、それが大きな波紋を生む。大抵の争いというのはそこから生まれてくるものだ。
「人はお互いに違う」そのことを知り、理解していくこと。
そのためには多くの知識に触れ、多くの人と話すことが大事だ。
いろんな人のいろんな意見。そこに触れていくと、「こうも人は違うんだな」と何度も考えさせられる。結局のところ、人が人を理解できる部分なんて殆どない。あるいは皆無といったほうが正しいのかもしれない。
そうしてお互いに違うことを理解すると、自分を苦しめることもなく、何のために書くのかも理解でき、自然と言葉が変わってくる。
言葉で人を傷つけることが少なくなるのだ。
そうなってくると、言葉は誰かを救うこともあるんじゃないか
そう、言葉とは時に救うこともあるのだ。ある言葉によって何か良いきっかけを生み出すこともありもすれば、あるいは誰かを癒すものとなり、優しく暖かい支えになってくれたりもするはずだ。僕はそう信じている。
言葉という凶器が、人を救ってもいいじゃないか。