物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

想いを形にする行為、それは尊い。

不可能だ。感情や感性をそっくりそのまま相手に伝えることは。
自分の内にある心を表現するために、人はあらゆる手段を使う。
例えば文章。自分の想いを言葉に乗せ、「楽しい」「悲しい」「嬉しい」といった感情を文章化することで相手に伝える。時には比喩を交え、体験を交え、過去の記録を使いながら。
例えば絵画。自分の想いを絵として表現する。荒れ狂った感情には荒々しい絵を。心静かな感情には物静かな絵を。

例を挙げていくときりがないが、どこまでいっても相手には届かない。届いたとしても、それが自分と同じモノなのか分かることができない。
なぜなら、その溢れている想いを言葉や絵として表現すると、その表現物に閉じ込めてしまうからだ。
心から湧き上がる何かの想い。例えばそれを、「嬉しい」という言葉として使ったとしよう。そうすると、表現した瞬間にその目に見えない想いは「嬉しい」という言葉に変換されてしまう。実際には違うはずなのに。
絵を描いても同じことだ。絵として成り立ってしまった瞬間には、その想いは固定化されてしまう。どうしようもないことだ。
完璧な文章なんてないし、最高の絵画もない。それでも人は表現しつづける。自分の世界を芸術にのせて。
もしかしたら、表現する行為そのものは無駄なのかもしれない。想いが届かないのなら、自分の世界に閉じ込めたほうがいいのかもしれない。

でも僕は、表現する行為を尊いと思う。
ある意味、表現とは「自分はここにいるんだ」と叫び続ける行為だ。
自分の存在をかき鳴らす。いつか、死んで消えてしまっても、どこかに残すために。誰かに残すために。
自分のクオリアを形にし、相手に伝える。それが完全には不可能だとわかりつつも、それでも人は表現し続ける。
その諦めない姿勢、表現の限界を知りたい気持ち。僕は、それが尊いと思う。