物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

「書評」に関してのまとめ

自分のブログで書いているものが何か、少し分からなくなってきたので自分の考えを纏めることにした。
ここから書かれている内容は本に対する書評に関してあれこれ考えた事が記述されている。
あくまで本だけを重視しており、他の作品群には言及しない。
まず、先に簡単に結論を述べれば、「書評とは対象の本の価値を客観的に示すことである」ということだ。これから書評もやっていきたいという考えもあり、今回記事を書いた。

書評とはなにか

書評で書かれている内容というのは、簡潔に言ってしまえば本の紹介である。
具体的にいえば本の内容を可能な限り普遍化させ、客観的に評価し、その本の価値を示すことだ。本がどういう意図で書かれたか、本が示す本質は何か、筆者が言いたかったことは何か。
あくまで客観的な評価を示しつつ、自分の感じたことを簡単に説明すること、ということになる。
そして書評を読んだ人はそこから本の概要を掴み取ることができ、購入するかどうかの材料として検討することができるわけである。

書評の場

僕が目にする書評の場は大きく分けて三つだ。

  1. ブログ記事
  2. 雑誌(主に文芸雑誌)
  3. 新聞

書評というのは至るところで目にする。それほど世の中では本というものが出回っており、重要視されているのだろうと感じる。(あくまで本を読むものにとってはそう感じるのかもしれないが)
ではなぜここまで書評というものが出回っているのか。それは本の持つ特性によるところが多い。

本を読むのには時間がかかる

本の特性といえば、読むことで時間を多く消費してしまう点にある。
本を最初から最後まで一字一句読みきろうとすると、大きな時間を消費することになり、一~三時間は読書に費やしてしまうことになる。これは現代社会に生きる多忙な人間にはキツイといえる。そしていざ本を読もうにも、氾濫しきった本の中から自分が欲している内容と関連するかどうか、自分にとって良書かどうか判断することは難しいといえる。
目次や最初の数行から判断するのも手だが、熟読するための本選びとなるとやや信頼性に欠ける。
だからこそ書評を利用するのだ。

書評そのものも一種の作品

書評というのはその本の紹介をするだけに留まらず、そこから学ぶことができる側面を持つ。
本を紹介する人物の見識、感想、方法論。書評から学び取れるものは多い。優れた書評というのは、書評そのものが独立し、一種の作品として読まれる場合もあるのだ。
つまり書評とは一つの「作品づくり」といっても過言ではないのかもしれない。

そして書評を利用して本を選ぶ人というのは、書評する人物を信頼しているからこそ本を選ぶ。
その人物の性格、これまでの本の紹介文、論理構造、その人物の着目点、経験に交えた知識。これらを総合的に判断することでその本を安心して選択することができるのだ。
そうなってくると、書評というのは難しいものと思うかもしれない。

書評の本質と自分なりの結論

書評は難しいかもしれないが、僕個人としてはそこまで難しくはなく、深く考える必要はないと思っている。
なぜなら、書評に正解はないからだ。
これは感想文にも通じているが、本をどう読んだかというのは百人いれば百人とも違う。それを可能な限り普遍化させたところでそれは正解ではないのだ。だから自分が思ったように、自分が感じたまま書けばいい。

本とは稀少な経験をした人や、教養に優れた人が読者に語りかけてきたものだ
そして書評というのは、その本の読みやすさ、読むことで得られるであろう事実。それらを本に書かれた文章から引用し、書評人の見解を引き出すものだ。
ようするに、あらゆる分野に関係なく、その分野体系の本を読みこなし、
客観的に解説しうることができる必要性もある。ということにもなる。
そのための方法論も多く存在する。
自分が一番興味を引かれた部分や、その本の本質を示す上で必要だと感じた部分をきめ細かく紹介することで本を紹介する方法や、あるいは目次に書かれている章ごとの要約をしていく形式の方法もある。
方法論はいくらでもあるのだ。そしてその方法を模索し編み出すのも書評を書くものとしての面白さだ。
ただし、批判するだけの書評というのは意味がないし書く必要がないとも思っている。そこから自分はどうすればいいと思ったか、改善すればいいと思ったかをしっかり記述するならば批判も問題はない、ということだ。

なぜ書評を人はするのか

そもそも書評をする人物というのは、「何か」を持っている。
本に対する想い。あるいは自分の想いを、本を媒介とし紹介することで表現したい「何か」があるから書評をするのだ。
何か言いたいことがあるのだ。何か伝えたいことがあるのだ。
それがどういった感情であれ、「何か」を汲み取るのはそれを読む人間だ。
「何か」をどう昇華していくか。それは結局のところ、読み手にかかっている。