物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

気がつけば、三ヶ月が過ぎていた

ブログを始めて三ヶ月が過ぎていた。「三ヶ月続ければそれは習慣になる」という言葉もあるし、これはもう習慣化できたのだろう。嬉しい。習慣化できて。まだ気を緩めるのは早いが。

ブログを始めてからは何かが変わったようなきもするし、実は何も変わっていないのかもしれない。

ブログをやっていて思ったのは、毎日記事を更新する人は純粋にすごい、という驚きだ。
毎日何かしらのネタ、考え、思いつき、日常を文章に起こすというのはなかなかどうして難しい。習慣化ができているのかもしれないが、それでも難しいはずだ。だがそれをやってのけている人たちが大勢いる。それも事実だ。

僕の場合は映画や読んだ本の感想をただ書き連ねるだけだからもっと記事を書けるはずなんだけども、難しいなって思う。最近もほんの少し更新ペースが落ちてきている。
感想を書こうとしても、あれも書きたいこれも書きたいという衝動が頭を支配し、なかなか書き進めることができなくなってしまう。そして満足が行かぬまま記事を出す。
完璧なんてものは存在しないのだから、気にする必要はないんだけどね。
こうして考えると完璧を求めてしまう習性というのは非常に自分を縛めているんだなって感じる。理想に囚われたままの自分と、それを見つめる現実の自分。その境界線が曖昧になり、それが一層自分を苦しめている。
「完璧主義よりも最善主義を目指す」そう考え書き続ける行為が大事なんだろう。
スタージョンの法則を思い出す、というのもありか。

話は少し変わるが「自分の考え」とは何かと最近考えを深めるようになった。多くの知識が氾濫している世の中において、自分だけで編み出した考えというのは果たして僕は持っているのだろうか疑問に思い始めたのだ。
というのも大抵の考えというのはどこかから得た知識が基盤になっていて、そこから思考を紡ぎあげていくことが本当に「自分の考え」となっているのかがよく分からないのだ。
「考え」そのものも元はといえばどこかしらで見た考えを拝借し、そこからまた発展させているものなんだし、それを「考えている」といえばそうなのかもしれないが何故か釈然としない。

「考え」を自分で編み出し文章にしたとしても、他の人物によってその文章よりもわかりやすく、聡明に「考え」について書かれていたりもする。なんだかそういう時、少し虚しくなる。でもそれは仕方のないことだと思う。気にすることでもない。
大事なのは「自分で考えた」という事実であって、その考えは自分の血肉となり自分の身を守る武器として活用できる。だからそれを他者と比較したところでそれは意味のないことなんだ。むしろ自分を発展させるためのパーツとして捉えるのがベストだ。

思考の果てには何があるのか。