物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

僕が映画を観る理由は「夢」にある

僕が映画を観る理由は一つ。夢をそのまま味わえるからだ。
正直にいってしまえば楽しみたいだけならもっと他の趣味をしたほうがいい。笑いたいのなら他にも方法はある。泣きたいのも同様だ。それらは別に映画でなくとも経験できる。僕は意味も脈略もモラルも映画に求めていない。
僕が求めているのは「夢」だ。

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僕は「無意識の夢」こそが映画の本質だと考えている。
映画の魅力はなんといっても映像だろう。スクリーンから映し出される物語は僕に例えようのない高揚感を僕に突きつけてくる。臨場感とでもいえばいいのだろうか。他の作品群とは少し異なる映像ならではの「生命」がひしひしと伝わってくる。おそらく、「そのまま」訴えてくるからであろう。映像媒体の優れた点はその伝達力にある。続けざまに動く映像。身体に直接鳴り響く音。そういった「生命」そのままを観る者に伝えてくるからこそ物語に魂が宿り、直接手で触れているような錯覚さえ覚える。これは映像で表現される物語のもつ特権といえるだろう。


面白い映画というのは観ている者の位置座標を完全に見失わせる力を持っている。今までに見たことのない「世界」の映像を自分の心に持つ「何か」のように感じ、子供の頃に憧れた夢だと感じ、くだらない妄想だと感じ、その瞬間僕という意識はこの世から消失し「過去」や「未来」や「現実」から隔離された混沌とした世界に溶けていく。
この奇妙な感覚。僕はそれを「無意識の夢」と捉えている。この浮遊感が欲しくて僕は映画を観るのだ。

そして僕は本当に夢を見るときもある。

―――寝ているのだ。

観ながら寝ちゃう感覚って気持ちいいのだ。


「しっかり映画を観ろよ!」という突っ込みもあるかもしれないがこれがまた気持ちいいのだからどうしようもない。
特に暇なときにぶらりと立ち寄るミニシアターなどは殆ど寝るためにいくようなものだ。さらにそれがゴタール映画ならば入館の時点で睡眠の準備に入る。(ゴタールが好きな人から石を投げられそうだ)
ゴタール作品―――特に「気狂いピエロ」を観たことがあるなら人なら同意してくれるも人もいるはず―――あの心に沁みる会話、ゆったりとした世界。まるで睡眠導入剤でも投与されたかのようにすやすやと眠りに落ちてしまう。


こんなことで「物語好き」と名乗っていいのかとも思うのだが僕の考えでは睡眠もありだ。
そこまで「観なきゃ!」と気負うより、乳母車に乗せられた赤ん坊のような感覚でゆったりと映画を観たほうがいい。それで寝てしまったのなら「夢」をみたことになるし、面白かったとしても「夢」をみたことになる。
共通して「夢」をみられるのが映画の魅力なのだ。


「映画とは寝てもいいもの」と知ると様々な映画にチャレンジできる。難しいからといって回避していた映画や、つまらなさそうと直感した映画ですら簡単にチャレンジできるのだ。そしてその中から自分にとっての「夢」を発見できるのもまた映画の醍醐味といえよう。

そして「夢」は人の内面に大きく作用する面がある。

映画を観ても忘れてしまい嘆いたことがある人もいるのではないのだろうか。どんなシーンでどんなストーリー展開か、綺麗さっぱり忘れるという現象だ。
だけどそれは「忘れていない」
意識上は霧消しているかもしれない。しかし必ず無意識に残っている。詳しい説明は省くが、人が忘れたと感じていても実は自分の深層に取り込まれているのだ。それは自分の心象風景として形成されいつまでもそこに残り続ける。

その積み重ねが最終的には「夢は現実を凌駕する」ものになる。
現実を崇めるつもりも夢を崇めるつもりも露ほどにもないが、現実が内包する残酷な暴力には夢で均衡を保ち更には現実を凌駕し人を救うのだと信じている。


夢の映画といえばこれ。クリストファーノーランの「インセプション

映画で引き出せる映像と浮遊感を最大限に生かしており、近年観た映画の中でもかなり秀逸な作品に入る。こっそりオススメしておく。
インセプション [DVD]