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吉田松陰が残した遺書「留魂録」 感想

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身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂

松陰が書き残した「留魂録」の冒頭文だ。

留魂録」とは死期を悟った松陰が牢内で書き上げた遺書である。
そして書き上げた翌日に、松陰は処刑されてしまう。
門下生のために残したこの「留魂録」は、どこまでも訴えかけるような文章になっていて、僕も心打たれた。
その全文は、死を目前に控えながらも、その文脈にまったくの乱れがない。ただ粛々と決別の言葉が述べられており、門下生への激励をこめて入念な配慮に至っている。

古川薫が訳した「留魂録」にはもちろん、原文も載せられており、それに後述する形で訳文が載せられている。
それでありながら、本書は松陰の来歴を事細かに記述しており、松陰の一生も知ることができた。

僕は遺書というものを読んだことがなかった。
だから遺書とはどこか悲しげで、読むと憂鬱げな気持ちになるだろうと勝手なイメージを抱いていた。

だがこの「留魂録」は、そういった想いを抱くことなく、ただ感銘を受けるばかりだった。

死は逃れることができぬ生の影だ。それは現代でも同じだ。死から逃れることはできない。
死の問題はいつまで経っても変わらない。
留魂録」は死に直面した人間が悟った死生観を語ったものであり、松陰が死ぬ間際に書いた血と魂の文だ。
どこまでも訴えかける文面に、僕は感銘を受けた。


全文は十六章にわけられている。

その中で、僕が感じたこと、心に残った文をここに書き残す。


留魂録が世に出るまで

まず、留魂録について書いておこうと思う。

留魂録」は、一八五九年十月二六日に牢獄内で書き上げたものだ。
執筆は十月二五日から書き始め、翌日の夕方に書き終えた。
松陰はこれを書くにあたって、まったく同文のものを二通作った。
遺書が門下生の手に渡る前に、司獄官の手に渡ってしまい、没収されてしまうのではないかと危惧したのだ。
そこまで入念に作戦を練って作られたこの「留魂録」には、松陰の熱い執念が伝わってくる。
そして現在、萩市松陰神社の境内に展示されている。

高杉晋作への手紙

松陰は門下生であった高杉から「男子の死すべきところは」と質問されたことがある。
それに対して、松陰は明確な答えを出すことができないでいた。
江戸送りとなり、死に直面して悟った松陰が、送った手紙がある。

「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。私も昨年の冬投獄されていらいこのことを考え続けてきたが、死についてついに発見した。死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存ずる者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしとげる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり私の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきをなす心構えこそが大切なのだ」

はっとした。僕自身、どこか生という怠惰に甘えていたところがあり、惰性のまま生きながらえていたからだ。
今の世の中にも、そういう人生を送っている人はいるのではないのだろうか。生きながらも、どこか心が死んでいるような。

「なすべきことをなす心構え」
なすべきことをなす。そのためにはその身が滅んでもかまわない覚悟をもつことが大事なんだと気づかされた。

留魂録

心に残った文を紹介する。

私はこのたびのことに臨んで、最初から生きるための策をめぐらさず、またかならず死ぬものとも思っていなかった。ただ私の誠が通じるか通じないか、それを天命にゆだねるつもりだったのである。
(略)

全てを天に委ねるようになるまでに、松陰は何度も心が揺れたと一章で語っている。国のために万策を尽くし、自分は何をなすべきか、何度も考えていたらしい。そして、死を悟った松陰は天命に委ねたのだ。

一、今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民達はその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむものがいるということを聞いたことがない。
 私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成しとげることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず 四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。
(中略)
 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

松陰は人生を四季と例えた。松陰自身、天命を尽くし、門下生に魂を受け継いでいってほしかった。だからここで死のうとも、それは自然の成り行きなのだと受け入れる覚悟はできていた。松陰の実は、必ず受け継がれると信じていたから。
四季というものは、その日一日だけでは変化は感じられない。いつの間にか移り変わっていき、それから気づくことができる。松陰は死ぬ間際、自分の四季の終わりを感じ取ったのだろう。

松陰の人間像

松陰は獄中で自分を変えることはなかった。囚人たちを相手に外交問題、国防、民政の講義を進め、そこから「孟子」の講義までやっていた。句会を催し、まるで学校のようになった。どこまでも教師であった松陰は、時と場所を問わず、そこにいる人々を惹きつけていた。

松陰の性格について、門下生の天野は「怒ったことはなく、誰にでも親切だった」と述べている。松陰の文章を読むと、どこか教えるというよりも、訴えかけているような語りだ。松陰は門下生を対等の人間として指導し、友人のような感覚で門下生と接していたのだろう。
どこまでも人に優しく、それでありながら己の心は熱く滾らせている。門下生達はそこに惹かれる部分もあったのだろう。

感想

これを読んでよかった。何か大事なものを受け取った気がする。それをどう生かしていくかは、結局のところ自分自身の問題なのだろう。花が咲くか、朽ち果てるか。
何かを実らすことができればいいなと思う。

命を懸ける。言葉で書くのは簡単だが、実行するのは難しい。だからといって、実行せずに停滞するのはよくないことだ。四季は移り変わっていく。気づかないままに。僕も変わっていかないといけないな。


吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

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