物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

素直に作品を評価する

良いものを素直に、「良い」と断言するのは案外難しいことなのかもしれない。

人が作品に接してその作品を評価するとき、人は作品を通じてその奥に潜む作者に目を向ける。たとえば「この作品は~~という人物が作ったから良い!」とか。
こういった作品評価をのやりかたをたまに耳にするし目にする。これをもっと広い視点でみるならばあらゆるものに通じてくる。「この人物は有名な大学を出ているから信頼できる!」や、「この食べ物は~~産だから上手い!」などなど。
それらに関して今回は深く書かかないけれど、人はなにか評価を下すとき、どこかその「背景」を頼りにしている部分がある、ということだ。

作品にしても同じだ。
ある作者の作品をいくつか接してると、その作者の人間に興味が湧いてくる。「こんな考え、発想を持つのはいったいどういった人間なんだ。どんな性格なんだ。どんな生活をしているんだ」と考え、調べ上げる。そしてそれらを加味した上で作品を評価する。
それは作品の評価には一切無関係で、なんら関連性もない情報だ。なぜなら作品というのは作者の手から離れた瞬間に独立するものであるからだ。


作品はただ面白く楽しめればそれで良いのではないかと思う。しかし、人は無意識のうちに作品を通じて人間の「可能性」を求めている。作品に触れることで、作者のもつ神秘、あるいは才能といった「可能性」に自分も触れていると感じるのだ。
案外、人が作品を求めているのはそれが理由なのかもしれない。作品を楽しむのではなく、その作者の持つ「可能性」に触れることを楽しむ、とでもいえばいいのだろうか。
そして人はそれらの「可能性」を加味しつつその作品に評価を下すのだ。

それはそれでいい。が、それは危険性を持つというのも理解しておかなければならない。
たとえばその作品が作者も含めて好きであるから、作品も好きだった場合だ。

もし評価を下した後にその作者がある犯罪行為をしたらどうなるのだろう。もしその作者の性格や考え方が自分に合わなかったらどうなるのだろう。果たしてその作品を好きでいられるのか。その作品を素直に「良い」と断言できるのか?
どこか揺らぐのではないのだろうか。「その作品はもしかしたら良くないのでは?」と疑念を抱くのではないかと、あるいは嫌悪してしまうのではと僕は考えている。

そういった評価基準だと、作品そのものは変わらないのに作者の来歴次第で作品が変化してしまうことになる。

それは危うい。
作者次第で変化する評価なんてものは、作品そのものに失礼だと思うし、どこか「自分」を見失っている。

自分の評価基準が根本から覆されないようにするためには、その「背景」にとらわれてはいけない。「背景」とは後からついてきた名札にすぎない。気がついたらすり替わり、なくなっているかもしれないのだ。

「背景」にとらわれて生きることは簡単だし、楽だ。何も考えることなくその「背景」に信頼を置き評価を下すーーーそれは決して悪くない行為だ。
しかし、その行為は自分の眼で世界を見る責任を放棄していることに他ならない。自分自身であることを放棄しているのに他ならないのだ。

人があたえられているのは今、この瞬間だけだ。目の前にある事実だけだ。それ以外に目を向けた瞬間、それは人の弱点となる。他の何かにとらわれることは目の前にある事実を見誤る一歩に繋がるのだ。

素直に評価するのは難しいかもしれない。「良い」と断言するのは難しいかもしれない。

良いの定義は難しいけれど、僕は、素直に、愚直に、「良い」と思えるのが好きなんだ。

走る

神戸マラソン大阪マラソンに応募した。
昨年の神戸マラソンに参加して以来、走ることに病み付きになっている。
昨年のフルマラソンは練習不足により酷い目にあった。完走はできたものの脚が3日間ほどまともに動かせなかったのが辛い。

しかし、走るのは楽しかった。

沿道からの温かい応援。どこまでも広がっていく爽やかな景色。呼吸はちっとも整わなかったし、脚は前に動かせなかった。それでも、いつまでも走り続けたいと強く願っていた。

またあの場所で走りたい。そう願うのは必然といっていいだろう。

当選確率は低いけれどもとりあえず二つ応募することにした。まあ当選しなくともどこかで走るのは決定事項のようなものなので、昨年の冬からそれなりにトレーニングに励んでいる。今日も10kmほど河川敷で走ってきた。心地良い。
目標タイムはこれといって決めてないんだけれども、サブ4あたりを達成できたらいいなと少し思っている。

走る練習をしていて感じているのは、少し練習をサボるだけですぐにそのツケが回ってくるということだ。
すぐに結果となって現れるから、油断無く練習し自分自身を常に磨き続けなければならない。だからしっかり継続していく。


走る理由は人それぞれだ。「痩せたい」「強くなりたい」「健康のため」「勝つため」「楽しい」
10人いれば10通りの理由がある。

だが、全ての根底においては通じてる部分がある。

ポジティブで、前向き

前を向いて走る。それは心が前向きではないとできない行為だ。

小さなことをこつこつと積み重ねていく行為が、いつか、どこか遠い所まで連れて行ってくれると信じて、これからも走っていく。
風が強く吹いている (新潮文庫)

月に一度の反省

さて、ブログを始めておおよそ五ヶ月がすぎた。いろいろと考えが僕の頭の中を渦巻いている。それらのことを少し書いていこうと思う。
月に一度の反省は、次から月末にする。

感想文の変化と考え

まず、感想文のスタイルが少しずつ変化してきている。
その変遷を下に表すと

自分のためだけに、自分が記事を見直したら自分の記憶と感情が再生されるように書く。

       ↓

他者を意識するようになり、他者にも共感してもらえるように、自分の記憶と感情が再生されるようにネタバレを含みつつ書く。

       ↓

さらに他者を意識するようになり、その作品を観ていない人でも僕の文章を読んでもらえるように、観た人にも共感してもらえるように、自分の記憶と感情が再生されるようにネタバレを控えつつ書く。


この変化は楽しい。
明確な変化が自分自身でも感じ取れている。
感想文の書き方もいろいろとおかしいのかもしれない。しかしこれが僕のスタイルなのだろう。流れる水の如く形を変えるように。

個人的に悩みどころなのがどこまで「ネタバレ」していいのかという線引きだ。正直いってどこまでがネタバレなのかは完全に人によると思うので、自己裁量でやってはいるのだが不安は拭えない。
あと、当たり前といえば当たり前だが僕の感想が人と異なる可能性が存分にあるということだ。
僕が面白いと思っても、他の人には面白くないということはよくあったりする。なのに感想文で「ここが良い!」とか無責任に書いていいのかなとも少し思ってた。
今はその二つに関して「気にしてもしかたがない」という結論に至っている。
面白い感想文は書けないけれど、僕がその作品の好きなところを伝えることさえできればいいかなと、今はそう思っている。

ありがたいコメントも時折貰っている。自分のやっていることが間違いではなかったんだと客観的にそう思えた。そう思えたのはとても大きい。
これからも自分が伝えたいことを書いていきたい。
肝心なのは、あくまで、「自分の書きたいことを書いて、たまたま反応がもらえたんだ」と思ってやっていくことだと考えている。
反応を気にしすぎると、自分が書きたいことを見失うからね。

コメントを貰ったりして感じたのは、単純に「うれしい」という事実だ。
それらは人のもつ本能に起因するものが大きいが、やはり嬉しいものは嬉しい。これははっきりと認めなければならない。
そして思ったのは、僕もコメントを時々書いていこうということだ。
あまり積極的にはならないだろうけど、気が向いたら思ったことをどこかのブログでコメントを書き残していこうと思っている。
喋ることは苦手な僕も、書くことならできるというのに気がついたからだ。

最近始めたこと

話は変わるが最近久しぶりに作曲を始めた。無料の作曲ソフト「domino」でちょくちょく遊んでいる。作曲というのもおこがましいほどのレベルだ。作曲の「さ」の字も知らない僕ではあるのだが、なかなかに楽しいので、ちまちまと学んでいっている。学んでみて思ったのが、「作曲」と「文章を書く」行為は似てるのだなということ。具体的に何が似ているのかといえばまだはっきりと言葉にできないんだけども。

今週読んだ本

村上龍の「五分後の世界」と、柳 広史の「ジョーカー・ゲーム」を読んだ。
両方面白かった。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)



読もうとしている本

ノヴァーリスの「青い花」アンヌ・モレリの「戦争プロパガンダ10の法則」池澤夏樹の「スティル・ライフ」
今週中には読む。

アウトプットとインプットの比率を上手にやっていきたい。

この桜をあと何回見ることができるだろうか

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「この桜をあと何回見ることができるだろうか」
桜の季節を迎えるたびに、何度もその想いが胸を貫く。 僕はこの景色の美しさを、どこまで追い続けることができるのだろうかと。

うららかな風に誘われるまま、僕は河川敷の斜面にゴロンと寝転んで、ずっと一人で桜を見ていた。「一人花見」である。
僕はこの「一人花見」を毎年やっている。

これがけっこう好きなのだ。友人にそう話すと「寂しいやつだな」と言われる。だけど、僕はその「寂しいやつ」を好んでやっているのだ。
もちろん、友達や知り合いと大勢で騒ぐ花見も好きだ。酒を飲み肩を組んで歌い、ワイワイと騒ぐ。それはそれで楽しい。しかし、どこか違和感を覚えているのも事実だ。
僕は思うのだ。大勢で騒ぐのは、寂しさを誤魔化すのと同時に、桜の美しさも誤魔化しているのではないかと。

だから一人で花見をするのにもそれなりの理由がある。
僕が「一人花見」をするのは、そこに確かな「美しさ」を感じていることに他ならない。
大勢での花見だと、仲間といる安心感と酒の酔いも手伝って、自分の持つ本来の「孤独」から遠ざかってしまうように思える。つまり、生や死といった生命が感じるべき大切なものを意識しなくなるように感じているのだ。つまり、桜の散る儚さ、生の美しさからも遠ざかっているのではないかと、僕は思っている。
だから、美しさを感じるために僕は自ら「孤独」になる。
僕は一人でいる時に真の意味での「美しさ」を見出すことができるのだ。

一般的に、「孤独とは寂しいもの」であるという認識が広く出回っており、孤独は辛く悲しいものだという風潮になっているような気がする。
最近良く耳にする「孤独死」という言葉からも、どこか薄暗いイメージを印象づけているように感じる。世の中は孤独を悪いものとして捉えているのではないか。
だけど、孤独はそこまで悪いものではないんじゃないかなと、考えている。
その「孤独死」にしたって、もしかしたらその死んだ本人は死ぬ間際まで人生を謳歌していたのではないか。他者からは寂しく見えていてもその人の主観では寂しくなかったのではないかと思うのだ。

たしかに、一人でいるとき、僕は寂しくなるときがある。だけどそれはいけないことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
僕は寂しさが好きだ。好きゆえに時折自ら孤独になるように行動している。
山に一人で登ったり、自転車を漕いで旅に出たり、雑木林を一人でぶらぶら歩いたり、山頂から星空を眺めたり―――自然の奥深くへ足を踏み入れると、そこには都会の喧騒がなく、自然のもつ本来の静けさを見つけることができる。
これらは世間一般でいう「寂しさ」だ。僕からすると悪くないと思うのだが、どうだろう。

そして僕はその「寂しさ」の中に、美しさを見出している。
山頂からの景色。満天の星空。柔らかな雑木林。目を閉じてもなお、その美しさは僕の心に響いている。繰り返す波のように爽やかな気持ちが押し寄せてくるのだ。
おそらく、生命を感じているからだろう。
それは僕自身の生命でもあるし、自然の放つ生命のことでもある。
そこにあるのは明確な生命の揺らぎだ。
人はいつか、必ず死ぬ。それはこれからも変わることがない事実だ。その事実がもつ意味―――それは真の意味での「寂しさ」は誰にでも訪れるという事実だ。
死を意識する。それは辛いかもしれない、恐怖を感じるかもしれない。しかし、そこに「美しさ」を見出すことができれば、そこまで寂しさを悪く思う必用はないんじゃないかと、僕は思っている。

僕は桜を一人で見る。桜が散るのを儚いものだと、心の底から想えるように。生命の揺らぎが美しいと想えるように。
「この桜をあと何回見ることができるだろうか」と、一人で寂しさを慈しむのだ。

この曲を本気で聞いた者は悪人になれない「善き人のためのソナタ」 感想

「この曲を本気で聞いた者は悪人になれない」このキャッチコピーが本作の全てを物語っている。
舞台は社会主義がまだ浸透していた旧東ドイツとなる。現代の日本とは異質かもしれない。しかし、そこに描かれていたのはどこの世界でも変わることのない人間の姿だ。社会に抑圧された人間が生み出す一つのドラマだ。
僕の中で本作は傑作だった。というかかなり好みであった。
善き人のためのソナタ [レンタル落ち]

あらすじ

1984年の東ベルリン。国家保安省のヴィースラーは反体制の劇作家ドライマンと同棲相手の舞台女優クリスタを監視するように命じられる。ヴィースラーはドライマンの住むアパートに盗聴器を仕掛けた。しかし、ヴィースラーは盗聴器から聴こえてくる世界に、心が激しく揺れ動く。

感想

冒頭で描かれるヴィースラーはまさに「冷酷無比」の言葉がふさわしい。彼は教室で学生達に尋問のやりかたを教えるのだがその授業内容がえげつない。実際に行われた尋問のテープを流しながら、嘘か真実かを見分ける方法を冷静に学生たちに説明している。学生が「非人間的ではないか」と質問をするとあっさりとその生徒の名前の欄を黒く塗りつぶす。おそらくその生徒の未来はないのだろうと安易に想像させられた。
ヴィースラーの行為は非人間的だ。しかし彼はただ「忠実」なだけなのだ。ただ今の共産主義に「忠実」なだけであって、自己を埋没化させていただけだ。
ようするに、与えれた仕事をたんたんとこなしていただけともいえる。
そんな彼だがもちろん罪の意識は感じている。だからこそ、彼の行動は次第に変化していく。
国家に対して裏切り行為を行っているドライマンを黙認したのもそのためだ。一つの罪滅ぼしでもあったのだろう。

印象に残っているシーンがある。

精神的に追い詰められたドライマンが自分の部屋で「善き人のためのソナタ」をピアノで弾くシーンだ。
もちろん、ドライマンは誰も聴いていないからこそ必死に音を奏でている。自分の心の叫び。悲哀を音にのせている。
ドライマンの部屋を盗聴していたヴィースラーはその旋律に目を閉じ、静かに涙を流す。

僕はこのシーンが大好きだ。

まず、この「善き人のためのソナタ」がいい。

その旋律は悲しさが溢れ出ていながら、熱く秘められた想いが音に込められていて、自然に、静かに、まるで降り始めたばかりの雪のように、音が積もっている。その旋律は僕の心を打った。

ヴィースラーが涙を流すのもまたいい。
芸術、あるいは美を通じての「覚醒」とでもいえばいいのだろうか。抑圧された社会での苦しみ、罪の意識をひっそりと浄化している。
冷酷であった彼が涙を流すそのギャップにも心動かされた。

ここには書かないがラストシーンも大好きだ。僕好みすぎる。

芸術家に言葉はいらない。ただ作品―――「物語」で伝えるべきだ。言葉で伝わらなくとも物語で伝えることができる。
心から相手に伝えたい思いがある。だけど伝えることができない。だから物語を創る。そうして初めて、人と人は通じ合えるのだ。

生きるとは、物語を書くこと

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人は誰もが生きている上で物語を書いている。この「書く」という行為は決してペンで記述したりキーボードを打鍵するという意味ではない。

それは「日々を積み重ねていくこと」。笑い、楽しみ、怒り、悔しさや悲しみに涙し、喜びに心震わせる。そんな小さな日常。その時点でもう同じなんじゃないかと、物語を書いているんじゃないかと、僕はそう思うのだ。

そのありがたみがさも当然のようにあるから、それがとても大事な価値であることに気づいていない人もいる。失ってみて初めてその価値がわかるのだと理解していても、大事な価値に目を向けないのだ。

たしかに、日々を積み重ねていく行為が辛くて苦しいと感じるときもある。この世界では楽しいことなどなく、目新しい変化などなく、決められた時刻の電車に乗って、いつもと同じ日常を過ごし、変化がないまま自宅に帰る。ただ同じ日常の繰り返しでそこに意味を見出せないままだったり、あるいは人とは違う欠陥を抱えていて人生そのものに嫌気がさし、積み重ねに意味を見出せなかったりもする。


だが、自分の見える世界でしか世界を認識することができない、あるいは自分の見える世界こそが全てだと認識すると、それは結局自分を苦しめる行為にしかならないのだ。

目の前には辛い現実が常にあり、きっとそういう思いで胸がいっぱいになっているのだろう。しかし、現実は一つではない。ある哲学者は「事実はなく、解釈のみがある」といった。現実は一つではなく無限に解釈することができるのだ。そうわかっていても辛さは変わらない時もある。今は袋小路に迷ったまま空しさだけが心を支配するときだってあるだろう。けれど、それが高い場所へと繋がっている階段なんだと思えば少しは楽になるのではないか。あるいは自分がもつ一番大切なものに熱中できれば少しは楽になるのではと、僕はそう考えている。


以前、僕は考えていた。「自分の中で一番大切なものはなんだろう」と。だけど、僕には大切なものが多すぎたし、少なすぎた。どうやっても答えがでなかった僕は、一度大切なもの全てを頭の中にある真っ黒な箱の中に詰め込んだ。そこから一つずつ、一つずつ、大切なものを捨てた。「捨ててもいいのではないか」そうチラリとでも思ったら迷わず捨てた。そうやって捨てていき最後の一つに残ったものだけ、その真っ黒な箱に大事にしまうように決めたのだ。

あらゆるものを捨てた。苦痛を伴うものだった。「本当にこれで正しいのか」脳裏に掠め、蝕んだ。でも、これしかないんだと信じていた。

残ったものは一冊の真っ白な本だった。その本には何も書かれていなかった。本のカバーは白く、本を開けても最初から最後まで何も書かれていない。
その本がなぜ大切なのか、僕にはわからなかった。わかっていたのは「これだけは捨ててはならない」と直感が訴えかけてきたことだけ。


今も、真っ白な本がなぜ大切なのかわかっていない。いや、わかっている。ただ言葉にしないだけで。

だから僕は積み重ねていく。小さな日常を。喜怒哀楽に満ち溢れたそんな小さな日常を。その真っ白な本に記していく。僕の大切なものを。

終わらない二月二日「恋はデジャ・ブ」 感想

「恋はデジャ・ブ」というタイトルだけ読むとただのラブコメものだと予想してしまいそうだ。しかし、本作はタイムループものでもある。超面白かった。
不可思議な現象によって同じ日を繰り返すことになった主人公フィルが、自分を見つめなおし自分を変えていく物語。
カテゴリーで分類するのであればラブコメではある。だが本作はそんなカテゴリーを軽々と凌駕し、観ている者に様々な問いかけを突きつける。それでありながら夢を与える内容となっており、素晴らしいの一言。
この映画が楽しめるのならば「ミッション:8ミニッツ」も間違いなく面白いのでオススメしておく。
恋はデジャ・ブ [DVD]

あらすじ

気象予報士のフィルは同僚でありヒロインのリタと、もう一人の同僚ラリーと共に二月二日に行われる「グラウンドホッグデー」を取材するため田舎町に滞在することになった。フィルはそこでタイムループ現象に巻き込まれることになる。

感想

安定したストーリー展開で純粋に楽しむことができた。「もし同じ日が続くのならどうする?」という誰もがするであろう様々な妄想を、この主人公フィルは実際にタイムループに巻き込まれた中で実際にやってのけている。どうせ同じ日を繰り返すのだからと犯罪に走ったり、様々な自殺をしたり、女の子を口説いたりとフィルの行動が突飛で面白い。

主人公フィルの性格はかなり「悪い」。高慢な人物として描かれている。自分勝手でわがまま、田舎者を見下し、仕事の愚痴を周囲にこぼし、仕事仲間のリタとラリーもそんなフィルに辟易としている。
そんなフィルが同じ日を繰り返すタイムループに巻き込まれる。
この不可思議な現象は、これといった理由がなく発生する。ただ単に自然現象なのだと僕は思う。もしくは、神様が与えてくれたフィルへのチャンスなのかなとも思った。

印象的なシーンがかなりあるのだが、何個か紹介する。
フィルがこの町に住む男二人とビールを飲みつつ、「なんでこんな最悪な日なんだと」愚痴をこぼす、だが男は半分になったビールジョッキを指して
「もう半分しかないと見るか、あと半分も残ってると見るか」
といったシーンがある。
このシーンを最初に観た時は「いいこといってるなぁ」としか思わなかったが、後に重要な意味を持っていたことに感心した。

もう一つある。
フィルがリタに好意をもち、タイムループを利用して親密な関係になろうと尽力するがフィルの性格が悪いので何度繰り返しても嫌われてしまう。そんな中、リタにこう言われる

「あなたが愛しているのは自分だけ」

フィルは同じ時間の中を繰り返すことしかできない。変わることのない一日。終わることのない二月二日。変わることのないフィル。リタを口説こうと必死に試行錯誤しても振り向いてくれない。
二月二日をどうやっても変えることができないのなら―――自分が変わるしかない。
そう決意したフィルは清々しい。その時間を真っ直ぐに楽しんでおり、綺麗だった。

どれだけ先のことを考えようとも、先になってみないとわからない。ならば「今、この瞬間」を全力で楽しむ。それが全てなんだ。
終わらない一日の中で気がつく「一日」の大切さは人生を輝きに満ちたものにしてくれる。

「一つのある場所から出られず、毎日が同じことの繰り返しなら、君はどうする?」