物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

継続七ヶ月目。今考えていることを三つほど書く。

月に一度の反省すら書くのが遅れてしまった。早いものでもう七月だ。

そろそろ蝉時雨でも聞こえてくるのではないかと期待する今日この頃。ここ数週間は身の回りの環境を大きく変え、なんとなく新しい気分で日々を過ごしてきた。どれだけ周りの環境を変えようとも自分というのは変わらないものなんだなと実感している。

それはさておき、今回も簡単に考えていることを三つほど書き残していく。

絶歌と表現の自由について

最近友人と「絶歌と表現の自由について」の話をした。会話をしていたとき、僕自身今も考えがまとまりきっていないと実感したので、考えていることをここに書き記す。


実をいえば僕はまだ絶歌を読んでいない。読んでもいないのに絶歌について語れるのかといえば疑問でしかないが、内容のだいたいの想像はつくので今は読むつもりはない。
僕のスタンスとしては「重大な情報であればあるほど知るべき」というスタンスをとっており、絶歌も読んでおいたほうがいいのかもしれないが今回は例外。


あと、絶歌に関しての諸情報や、例の事件に関する情報はここでは書かない。書くのは自分の考えのみ。



まず疑問だったのが、なぜここまで絶歌はメディアに取り上げられているのかという疑問だ。前科者、あるいは犯罪者が本を書いて世に出すのはそれこそ昔からあった話で、有名所を挙げるならば永山則夫の書いた「木橋」などもそうだ。少し前にも前科者の書いた本が出版されていた気がする。


やはりここまで取り上げられていたのは、少年法で重たい罪を免れたことへの不満、犯罪内容が異常だったのと、遺族への承諾がなかったことが理由になる。


少年法に関しては未だに納得がいっていない人が多い印象を受ける。一応、ここ十年の間で二回ほど少年法は改正されている。だが、まだ大衆が納得するほど充分ではないのかもしれない。


出版されるべき本だったのか

この本は出版されるべき本だったのか。
出版社側がもし「世に広める必用がある」「表現の自由」という大義名分を提示するのならば、本である必要性はない。別にブログでも代行は可能だ。なんなりと手段はある。
が、本を出版する以上、遺族の承諾を得る必用があったのではないかと思う。これは筆者の責任もあるが、編集と出版社の責任もあったのではないか、という印象。知識というのは必ずといっていいほど誰かを傷つける。特に今回の出版に関して、遺族が傷を負うのはわかりきっていた。
しかし、「表現の自由」という大義名分を借りて無理やり出版に至った印象を強く受ける。




政治やイデオロギーに関して特に「表現の自由」が適切に扱われる必用はある。大衆は知る権利を所有しており、情報は内密性を保つより公開していったほうが多角的視点から情報を判断できる。故にそれらに関してはどんどん公開していくべきだ。

では今回もそれにあてはまるか、といえば微妙なラインだ。


僕の結論としては「表現の自由を守るために行われる充分な努力がなされなかった」である。あたりまえといえばあたりまえの話。しかしそれが行われなかったというのも現実である。(行われていたのかもしれないが、不充分な印象を今のところ受けている)
本の規制や回収をするべきという意見もあるが本の規制はしなくてもいい。


あとこの本を読んで正義や義憤に駆られて行動を起こすのは危険だと書いておく。
この本は小説ではないのだから、そこまで感情的になる必要はない。悪を批判してればいいと考えているだけでは視点が単調になり、複眼的に思考することができなくなる(まぁあたりまえのことなのだが)


この本を読んだら多くの問いが生まれてくるだろう。故に考えるべき事柄はたくさんあるはずだ。肝心なのは浮かんでくる問いに一つ一つ冷静に付き合っていくことだ。

以上。いろいろ不備があるので加筆修正するかもしれない。

記事を貯めることについて

記事を書き貯めることの難しさを知った。
というわけでしばらくの間、どうすれば書き貯めることができるのかうんうんと悩んでいたところ、たまたまこんな本に出会った。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

これは論文執筆に関しての方法論が書かれているのだが、もっとざっくりといってしまえば文章を書く人全員に当てはめることができる。
なかなか目が覚める一冊だった。これからはもっと細かく習慣づけをやっていく。一日一時間文章を書くとか、三時間にするとか。

何かをオススメする行為は価値観の押し付けか


友人にある作品をとてもオススメしたくとも、強くオススメしすぎると逆に押し付けがましくなり、反発力が強くなって作品に触れなくなるというのがある。
好きな分野になるとどうしても「おすすめだよ!」とか、「これは絶対読むべき!」と熱くなってしまう。そして熱くなると引かれるパターンが多い。


結局のところ強くオススメするのではなく、選択権は相手に任せる形で「面白かったよ」と軽くオススメするあたりが最適なのではと思う。それで無理だったらスパッと諦めていく方が自分の精神状態も安定する。


「べき論」だろうと簡単にオススメしようとも相手によっては押し付けになってしまうので、どう足掻いても無理な部分はある。
しかし、「そこまで熱く語るのならば」と作品を手にとる人がいることもまた事実だ。
バランスの兼ね合いを意識しておくのが肝心なんじゃないかな。


少し長くなったのでここでとめておく。

海にいきたい…山に登りたい…