物語好きのブログ

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この桜をあと何回見ることができるだろうか

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「この桜をあと何回見ることができるだろうか」
桜の季節を迎えるたびに、何度もその想いが胸を貫く。 僕はこの景色の美しさを、どこまで追い続けることができるのだろうかと。

うららかな風に誘われるまま、僕は河川敷の斜面にゴロンと寝転んで、ずっと一人で桜を見ていた。「一人花見」である。
僕はこの「一人花見」を毎年やっている。

これがけっこう好きなのだ。友人にそう話すと「寂しいやつだな」と言われる。だけど、僕はその「寂しいやつ」を好んでやっているのだ。
もちろん、友達や知り合いと大勢で騒ぐ花見も好きだ。酒を飲み肩を組んで歌い、ワイワイと騒ぐ。それはそれで楽しい。しかし、どこか違和感を覚えているのも事実だ。
僕は思うのだ。大勢で騒ぐのは、寂しさを誤魔化すのと同時に、桜の美しさも誤魔化しているのではないかと。

だから一人で花見をするのにもそれなりの理由がある。
僕が「一人花見」をするのは、そこに確かな「美しさ」を感じていることに他ならない。
大勢での花見だと、仲間といる安心感と酒の酔いも手伝って、自分の持つ本来の「孤独」から遠ざかってしまうように思える。つまり、生や死といった生命が感じるべき大切なものを意識しなくなるように感じているのだ。つまり、桜の散る儚さ、生の美しさからも遠ざかっているのではないかと、僕は思っている。
だから、美しさを感じるために僕は自ら「孤独」になる。
僕は一人でいる時に真の意味での「美しさ」を見出すことができるのだ。

一般的に、「孤独とは寂しいもの」であるという認識が広く出回っており、孤独は辛く悲しいものだという風潮になっているような気がする。
最近良く耳にする「孤独死」という言葉からも、どこか薄暗いイメージを印象づけているように感じる。世の中は孤独を悪いものとして捉えているのではないか。
だけど、孤独はそこまで悪いものではないんじゃないかなと、考えている。
その「孤独死」にしたって、もしかしたらその死んだ本人は死ぬ間際まで人生を謳歌していたのではないか。他者からは寂しく見えていてもその人の主観では寂しくなかったのではないかと思うのだ。

たしかに、一人でいるとき、僕は寂しくなるときがある。だけどそれはいけないことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
僕は寂しさが好きだ。好きゆえに時折自ら孤独になるように行動している。
山に一人で登ったり、自転車を漕いで旅に出たり、雑木林を一人でぶらぶら歩いたり、山頂から星空を眺めたり―――自然の奥深くへ足を踏み入れると、そこには都会の喧騒がなく、自然のもつ本来の静けさを見つけることができる。
これらは世間一般でいう「寂しさ」だ。僕からすると悪くないと思うのだが、どうだろう。

そして僕はその「寂しさ」の中に、美しさを見出している。
山頂からの景色。満天の星空。柔らかな雑木林。目を閉じてもなお、その美しさは僕の心に響いている。繰り返す波のように爽やかな気持ちが押し寄せてくるのだ。
おそらく、生命を感じているからだろう。
それは僕自身の生命でもあるし、自然の放つ生命のことでもある。
そこにあるのは明確な生命の揺らぎだ。
人はいつか、必ず死ぬ。それはこれからも変わることがない事実だ。その事実がもつ意味―――それは真の意味での「寂しさ」は誰にでも訪れるという事実だ。
死を意識する。それは辛いかもしれない、恐怖を感じるかもしれない。しかし、そこに「美しさ」を見出すことができれば、そこまで寂しさを悪く思う必用はないんじゃないかと、僕は思っている。

僕は桜を一人で見る。桜が散るのを儚いものだと、心の底から想えるように。生命の揺らぎが美しいと想えるように。
「この桜をあと何回見ることができるだろうか」と、一人で寂しさを慈しむのだ。