物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

再開と文章を書くことについて

しばらくの間諸事情が重なりブログから離れていた。やっと落ち着いてきたということもあり、継続を再開しようと思う。今回は書けなかった鬱憤を晴らしていきたい。


離れていたとはいうものの、心のどこかにブログで文章を書きたい意識があった。頭の中で文面を展開し推敲を重ね、忘れたころにまた同じような文章を構成している自分がいた。
最近までは誰かの指示、あるいは目に見えぬ流れに突き動かされ、ブログ外での文章を書くことが増えて少し嫌気がさしていた。それはそれで受け入れてはいるはずなのだが、どこか「自由」からかけ離れている感覚が脳裏に影を潜めているのだ。


一応、ブログを書き始めて少ししてから日記も書いてはいる。しかし日記だけではあまり満足がいかない。ブログと日記とで少し楽しみ方が変わるからだ。
日記ではどちらかといえば自分の抱くかなり強い苦しみや、ネガティブな感情を主に書き、ブログではどちらかといえば少しだけ明るくなれるような内容を主に書いている。もちろん、ブログにだって暗い話を書いたりはするが余りにも真っ黒な感情や自分が感じるかなり強い苦しみや怒りは書かない。
なぜ日記とブログで分けてかいているのか理由は二つほどあるのだが、まず一つ目に僕の個人的な考えとして、「強い苦しみや暗い感情は自分だけで味わい楽しむもの」という考えがある。


自分でいうのもなんだが、僕には「強すぎるネガティブな感情を独占したい」という奇妙な欲をもっている。他の人にそんな話をしたことがないので、他の人も同じような欲を持っているのかもしれないけど。

僕の中では暗い感情を日記に書きなぐり、味わい、戦い、楽しむのが一つの趣味のようになっているみたいだ。
そして、もう一つに「感情は伝染する」という考えがある。
ネットで公開された文章は誰でも閲覧でき誰が見るか分からない。その中で余りにも黒い感情が綴られている文章を読むと感情そのものが伝染してしまう。
他人のネガティブな感情を味わいたい人もいるとは思うのだが(僕もその一人かもしれないが)あまり良くないことのような気がする。

というわけで日記とブログで心のバランスをとりつつ、文章を書くのが僕にとって最適だったりする。他にも文章を書く媒体を扱ってはいるものの、完全に自己内で完結する場所はこの二つだ。

その二つは大切な拠りどころだ。軽く依存しすぎているきらいもあるが、その自覚があるだけまだましであろう。

今は何も考えず文章を書いているが、その感覚が楽しく、落ち着く。乱れが形となり、心が穏やかになる。やはりこの感覚は大事にしていきたい。


こうして文章を書いていると、少しずつ頭の中の乱れが納まってくる。
一つ書いた文章が次の文章を呼び起こし、広がる思考が言葉となり、文章として収束していく。書くというのはその連鎖でしかなく、調子が良いと先に綴られるべき言葉たちが乱暴に脳裏を駆け巡り、キーボードの打鍵すら全く追いつかなくなる。自己が希釈され、言葉そのものになっていくような感覚だ。そうなると僕はその流れに身を任せ、ただ無心でその言葉を探り当てるだけになる。いや、僕が言葉を手繰り寄せるのではなく彼らのほうが僕という手段を探り当て、ようやくこの世界に顔を出すことができるのだといったほうがしっくりとくるかもしれない。
狂いそうなほど揺さぶる眩暈が絶えず自我を振動させ続けているような感覚が続き、距離や時間さえも切り離された純粋な持続だけがそこに現れ、言葉たちは無慈悲に競い合う。海馬から始まりシナプスを駆け巡り、頚椎の直線を抜け指先の神経へと続く最終コーナーを駆け回る。その先に終着点はなく、永遠に回帰し続ける現象でしかない。
その瞬間、僕は深海の底に横たわっている。光さえも届かない深淵の中、奔流はこちらの戸惑いなどかまうふうもなく騒ぎ続ける。「彼ら」はカタチになることを求めて止まない。それこそが「彼ら」の存在意義であり、唯一無二の存在理由だからだ。「彼ら」とはなんの形容すらあたえられていない「何か」だ。虚構でも物語でも情動でも好きなように名づけてかまわない。

そこにはおそらく全てがあって、そして、何もないのだろう。

全てが正しく、全てが間違った世界。その世界にある「彼ら」を、気がつくと僕は認めるしかなくなる地点に到達している。受け入れるしかなく、抗うことすらかなわない。そしてこの微熱にも似た興奮は、まどろみの幕が広がるように、訪れたときと同じようにして立ち消えてしまう。突きつけられた情景を静かにかき消してしまうまで、何かが立ち去った際に漂う朝の霧を目の当たりにさせられたような悲しみに指先はただキーボードの上で呆然として立ちすくむ。目的地を失った可能性はすっかり別の存在へと形を変えてしまう。諦めて僕はため息をつき、冷たくなったマグカップを手にとり、ほんの数十分前までそこにはなかった記号の群れを画面にスクロールさせて検めていく。意味不明で支離滅裂な文章。そんな文章を見ると物悲しくなる。でもそこには確実に何かが切り取られている。明確な形となった言葉を損なわないように慎重に整理を試みる。目も眩むような自己主張の激しい言葉たちを落ち着かせ、乱反射する文脈に道筋をつけていく。
そうしていくうちに、必ず脳裏に一つ疑問が湧く。僕自身が自分だと確信しているもののうち、はたしてどこまでが言葉でできているのだろう。
だが問いそのものが言葉なるもので成立してしまっている以上、答えなど最初からみつかるはずもなく、見つけるつもりもない。行き場を見失った疑問符だけが寄る辺もなく宙に漂っている。疑問符を消し去ろうとしてもまた新たな疑問符が湧き上がる。ズレた疑問は本来の線を辿ることなく、見当違いな方向へと移ろいでいく。そのたびに毎回気づかされる。どの言葉も初めからそこにあったわけではない事実に。思索された結論やカタチとして残る感情さえも僕らは言葉なるものを用いてやっとのことで捕らえている。自分自身のことでさえこの記号なしには上手く理解することがかなわない。
そう認識すると自我を取り巻く厚さのない膜と化した言葉たちの想像は一層強固なものへとなっていく。明確な輪郭を持ち、混沌の相をたたえ、口では言えないけれどはっきりと意識する。―――「彼ら」とは静的なものなど何もないこの世界を形づくるものなのだ。

バラバラで曖昧だが、これからも興味のあることを書いていく。それしか僕にはできないのだから。