物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

好きを貫く必用はない

ほんとうに自分の好きなものはどこにもない。
それはその時、空間、気持ちによって左右される霧のようなモノでしかなく、
数学の公式のように美しく定義できるようなものではない。



好きなものを定義しようとして「ぼくは~が好きだ。理由は~だからだ」とカタチにしてしまうと、その言葉の牢獄に閉じ込められてしまう。
全ては流れ行く水のようなものだ。固定化させ、一貫性を維持する必要なんてどこにもなく、追い求める必要もない。
そもそも昨日の自分と今日の自分は生物学的視点からみても別物でしかなく、思考や感情、刻まれた記憶ですら移り変わっている。
今いるこの地点ですら宇宙の運動に巻き込まれており、静止していない。静止しているように見えるが、それは錯覚なんだ。
その中で固定化された「明確な感情」を求めることはこの流れゆく世界の中では自然ではない気がする。

ほんとうの自分を必死になって見極めようとするよりかは、ただあるがまま自分の持つ明確な意思と選択で生きていき、よくわからない衝動や入り混じった不可思議な感情を受け入れて、静かに己の足で歩いていくという選択もありだ。


よく人から「一貫性がない」といわれる。おそらくそうなのだろう。どちらかといえば僕はわざと一貫性のない状態を維持しようとしているのだから、それはそれで当然の話ではある。山登りが好きなときもあればサイクリングが好きなときもある。プログラミングが好きなときもあれば、物語が好きなときもある。テンポが速い音楽が好きなときもあればテンポが遅い音楽が好きなときもある。落語を見に行きたいと思えば見に行き、その次の日は美術館にいったりと、まるで一貫性がない。「一貫した思想が大事」といわれても、全てに当てはまるとは思えない。「自分がない」といわれても、ほんとうの自分なんてものはどこにもないのだから、どうしようもなかったりする。



本を読んでいても、そこに可愛い女の子話しかけてきたらあっさりと本を手放すだろうし、ストリートミュージシャンが心地よい演奏をしていたら、本来の目的をそこに置いて、しばらく足を止めるだろう。
その都度、その状況に応じて人はあらゆるものに興味を持つのだから、静的な、不動たる自分の好きなものを見出すなんて疲れるだけだ。
だから、「ほんとうの自分」や「ほんとうに自分の好きなもの」を、そんな幻想を追い求め、貫き続ける必要性はない。



「好きを貫け」という思想が現代では主流となっているが、好きを貫く必用はないと、僕は考えている。
そんな中、「好きを貫け」という思想を今の若者に突きつけても、若者は困惑するだけだ。困惑させ、「私とは何か」「私の好きなものは何か」という不確かな問いに答えを出そうとすることになる。

これは、「継続するな」と書きたいわけではない。
ただ、自分の「固定化された好き」というのはないのだと書きたいのだ。


常に自分は変化しているのだから「過去の自分が好きだったから、今も好きに違いない」と考えるのは、おかしいのだ。
もちろん、そういった「傾向」はある。
だからといって、それが全てではないのだと、僕はそう思うのだ。