先入観について悩んでいる
僕は子供のころ、おとなになりたくて仕方がなかった。
おとなになって自分の好きなものを買い、何ものにも囚われることなく、自分の好きなように生きるのだと憧れ、夢見てきた。
しかし、今は逆に子供に戻りたがっている。
なぜなら、子供はどこまでも純粋で、何ものにも囚われていないからだ。
僕は大人になってはじめて気がついた。子供のころに憧れたものが、すぐ近くにあったことに。
大人の人は子供の意見をあまり聞こうとしない。聞いたとしても、それは話半分で聞き、そこから発想を得ようとしていない人が多いと感じる。
子どもは知識と経験が足りていない。それは大人と比べれば生きた年数が短いのだから当然といえば当然の話ではある。
だから大人は、子供には経験が足りないからといって判断をまともに聞こうとはしない場合が多い。
だが、子供にも勝っている部分はあるのだ。
子供が勝ってる点があるとするならば、それは先入観の点にある。
イギリス経験論の祖フランシス・ベーコンは、イドラ(先入観)がないほうが物事の本質に近づけると主張した。
たしかに、先入観がないという点では、子供の純真さが物事の本質に近づける。
子供の意見にはっとすることがあるのはそのためだろう。
そして、ベーコンは正しくものを見るために次の4つのイドラを取り除かなければならないと主張した。
ひとつ目は「種族のイドラ」
これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じる。
ふたつ目は「洞窟のイドラ」
これは窮屈な洞窟の中に入ってしまったかのように、教育や読書で得た知識や個人的体験によって生じる。
みっつ目は「市場のイドラ」
これは言語によって生じる思い込みのことで、ネットや市場で聞いた噂話を信じてしまうようなもの。
最後の「劇場のイドラ」は、劇場で観たものに強い影響を受ける思い込みのことだ。
その主張について考えてみると、大人というのはどこまでも先入観に囚われていて、ある意味で、子供というのは何もわかっていないのにわかっている。
僕は今になって、そんな純粋さに憧れているのだ。
憧れているだけで、どうしようもないんだけれども。
この瞬間は戻ってこない。
進み始めた時計の針は不条理に歩みを刻む。決して、戻ることなく。
もしそれに近づける方法があるとすれば、ひたすら自分に問いかけ続けることなのかもしれない。
今はそんなことをじっくり考えている。