物語好きのブログ

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虚構を想像する自由

少し前の話になるが首相官邸にドローンが落ちた。この事件を耳にしたとき最初に脳裏によぎったのは伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」だ。およそ七年前に刊行されたこの作品ではドローンを用いた犯罪がキーとなっている。真に迫った虚構は現実に肉薄するのだなと驚いていた。
つい先日からは火山やら地震やらのニュースをよく耳にする。これは小松左京の「日本沈没」をどこか彷彿とさせる。杞憂であるといいのだが。


こうして考えてみると「虚構の自由さ」というのは魅力的で、実際に起きるとまずい事態もフィクションなら表現できる自由さが僕はたまらなく好きだ。
しかし、おとなになるにつれ、多くの人は虚構を想像する自由が失われている気がする。


雨上がりには傘を剣と見立てて振り回し、見知らぬ小道では怪物が飛び出す想像を繰り広げる―――おとなになって、どれだけの想像を許さなくなったのだろうか。


恥も外聞もかなぐり捨ててもっと自由に想像をめぐらせてもいいんじゃないか。頭の中は誰にも除かれることなく完全に自分のものなんだから。気がついていないのかもしれないが、今もその情熱が息づいているはずなんだ。どれだけ時代を重ねようとも、精神が磨耗しようとも、その根本は変わらないのだから。


余りにも現実主義だと、虚構と現実の見分けがつかなくなり、冷静な判断ができなくなるのではと危惧している。
逆に、余りにも虚構主義だと、時には想像が妄想へと昇華し気がつけば五感が吹き飛ぶ場合もあったりする。僕の場合はそれがよくあるので気をつけないといけないが。


肝心なのは虚構と現実の境界線をしっかりと見極めることだ。


見極めたうえでしっかりと想像するのが、真の虚構になるのだと僕は思っている。
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そして、虚構を目指す想像力には「夢」もある。この世界には未だ見ぬ将来に向けて、大胆な仮説を提示する人もいるのだ。
小説家であり詩人でもあったエドガー・アラン・ポーが1848年に発表した散文詩ユリイカ」(散文詩とはいい難いが)には、ビックバン宇宙論へと繋がる思考が述べられており、ポーは当時問題視されていた「オルバースのパラドックス」(宇宙が無限に広がっているのなら、星は無限個存在することになり、夜空は昼間のように明るいはず)が解決することに気がついていた。

もし星が無限につづいているとしたら、銀河によって示されるような一様の光輝が、空の背景に現れねばならない。なぜならば、その背景のどの点にも星が存していないことは絶対にないわけだからである。それゆえに、こうした条件の下に望遠鏡が無数の方向に見いだす空所を証明する唯一の方法は、この目に見えぬ背景が非常に遠くにあって、そこから発する一条の光線も、まだ我々のもとに達しないのだと想像することである。

と書かれている。
そしてポーが散文詩を発表した81年後に「宇宙は膨脹している」(遠方の銀河は、地球からの距離に比例して遠ざかっている)というハップルの法則が発見された。
天文学者が数式で明らかにする80年以上前に、ポーは宇宙の起源を説明する理論の雛形を提示していたのだ。
そんな宇宙をも捉えるポーの想像力と直観には感動すら覚える。
こうして考えると虚構は非常に使い勝手がいい。現実に縛られることなく、多くの人々に自分の考えを提示することができるのだから。
そして僕たちもポーと同じように想像を巡らせることができるのだ。それが虚構であろうと、偽物であろうと、思考の中では自由に宇宙を駆け巡り、どこまでも遠くへ旅できる。


果てしない空を見上げて、自由に虚構を楽しむのもありだろう。