物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

言葉と人

「君の伝えたいことはわかる。理解できる」
この言葉にどれほどの真意があるのだろうか僕には疑問だった。
そういった「言葉と人」についての関連と考えを、少し書きたくなったので書いておこうと思う。




「なぜ人は自分の考えを理解してくれないのか」
おそらく大抵の人はそんな思いを抱いたことがあるはずだ。
相手に理解してもらうためにどれだけ言葉を尽くそうとも、相手には決してとどかない虚しさ。
逆に相手が伝えたかった内容が自分には伝わっていないというのもよくある話で、また自分にとっては伝わっていると思っても、それを間違った意味として受け取り誤った解釈を引き起こしているというのもよくある。言葉というのは必ずといっていいほど誤って伝わってしまう。
人と人がなぜわかりあえないのか―――理由は様々だとは思うが、一つに言葉に混じる「ノイズ」が関連している。


言葉は不完全だ。どれだけ懇切丁寧に言葉を尽くそうとも、相手には届かない。言葉を使うというのは、自分の中にある無限の世界を一つの箱に閉じ込めるようなものだ。圧縮すればするほど意味は零れ落ち、一つの形式として半ば無理やり成立する。それが幾重にも言葉として積み重なると徐々に意味合いは本来の意味とは異なる道を辿っていく。一度誤って引かれた線はひたすらに本来の線を辿ることはなく、交わることすら許されなくなるのだ。
「誤りは人の常」なんて言葉があるがやはり表現の伝達には限界があり、歪曲を免れるのは難しい。


声を通じての会話でも同様だ。
伝言ゲームをやったことがある人はわかるかもしれないが、大抵は上手くいかない。情報が変貌し、欠落がいとも簡単に起きている。
それはもはや異なる情報となり、誤解を招く場合が多々ある。つまり、どれだけ正確さを重視しようとも誤りはおこるものなのだ。
情報の正確さを求める場合に一次情報を重視するのはその為だ。二次情報となると「ノイズ」が混じりズレが生じる。

これは「ノイズ」が関連しているからこそ起きる現象に他ならない。
音声が発生すると必ずしもそのまま音声が相手に届くとは限らないのだ。欠損していた場合、脳は欠損した箇所を合理化しようとする。ある欠けたものに接触すると何かで補償し、適切なものにしようという作用が働く。


この作用は逆に不必要なものがあった場合、それを棄却するときにも作用する。
騒音がある場所での会話は、脳は様々な音が飛び交う中から一つの音だけを選びとり、そこから意思疎通を図る。


こうして考えていくと、言葉とはいかなる場合でも充分に満たされた表現をしているのではなく、必ずといっていいほど必用条件以上の情報を送ったり、あるいは条件以下の情報を送っているのではないかと考えられる。
だからこそ、「ノイズ」が発生すると「ノイズ」のみが消されるに留まらず、他の必用な情報もごっそり削り取られる場合もある。その逆に情報の少ない言葉には必要以上に不要な情報が添えられる場合も少なくない。


また普通の会話でもそういった作用が起こりうる。
面と向かっての普通の会話で、「ノイズ」が発生するのかと疑問に思うかもしれない。しかし心理的面から考えるとやはりノイズが発生する。むしろ物理的なノイズよりも大きな作用を起こす。
たとえば信念、あるいは思想上対立している二人の会話には大きな誤解の伝達が起きているのもそのためだ。聴き手と話し手の立ち位置、背景が違うだけで簡単に大きな変化を起こす。そういった誤解続きの会話を耳にしたことがあるのではないのだろうか。
これは社会心理学でいう「属人思考」に近い。


書き言葉はそういった「ノイズ」が少ないかと思うが決してそんなことはなく「ノイズ」は存在する。同じ文章表現でも相手の来歴、信頼度、許すことができない人間かどうかでもあっさりと情報は変貌を遂げる。むしろ話し言葉での伝達よりも書き言葉での伝達のほうが、そういった目に見えない「ノイズ」の混入が大きくなっている側面もあるように感じられる。それは文章で表現している相手の背景が見えないが故に、逆に「ノイズ」を求める作用が働く面があるからこそなのかもしれない。
友人が書いた作品が近い立場にあるだけで正当に評価できないのもそのためだ。正当に評価できないのはむしろ正常ですらある。
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つまり言葉を扱う以上、人と人は真の意味では通じ合えないーーーものだと僕は考えている。

では、情報伝達においてあらゆる言葉に「君の伝えたいことは理解できないから同意できない」と答えればいいのだろうか。
あらゆる表現に「作品を完全に理解できないから評価できない」と答えればいいのだろうか。

それは間違っている。

なぜなら「全ては蓋然性をもってでしか語りあうことができない」からだ。それが前提である以上、わざわざ口にする必要はなく、正直に伝える必要はない。
人が理解できるのは唯一つ。「何もわからないことをわかっている」という事実のみ。
だからこそ、どれだけ間違っていようとも、それが虚言であっても、欺瞞であっても、自己満足であっても、僕はこう答えるしかないのだ。
「君の伝えたいことはわかる。理解できる」と。
これは一つの諦観に近い。諦観の中でのみ語り続けるしかないのだ。
その諦観の中で初めて人と人は通じ合い歩み寄れるのではないのだろうか。