物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

世界と言葉

しばらく悩んでいた。自分の「感想という名の世界」を言葉にしていいのかという問題に。

一つ前の記事でも少し書いたが、作品の感想をそのまま言葉で表すことはできない。表現には限界があり、どう足掻いてもそれは分離され、独立する。

その現状―――自分が感じている感想と言葉とが、まったく同一ではない形状をしているのが悩ましかったのだ。
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心の中にある感想の世界に形はなく、配列や方向性すら定まっていない霧のようなものだ。それは何も定まっていないが故に自由で、創造的ですらある。

言葉で表現される文章は違う。そこには一連の流れと語句の連なりが形としてたしかに存在している。さらにいえば、文章は流れる方向が一つだ。逆から読んでもそれは文章としてはまず成立しない。
言葉にするというのは、定義をしてしまうことだと思う。境界を作り、区切ってしまう行為だ。
こうして考えると文章がもつ自由度というものは小さい。

だから僕は自分の感想を内に秘めることで、その世界を固定させないままにしておいたほうがいいのではと悩んでいたのだ。

しかし、文章を書く行為は人を自由にしている、という考えもあった。
書かれた言葉に目をむけるのではなく、書くという行為に着目するとそう思えてくるのだ。
言葉の表現としての表象は変わらない。が、「今」というこの瞬間は変わっている。
今この瞬間は忘却という渦に飲み込まれ、時間という波に流されているのだ。
「書く」とはその忘却を手繰り寄せ形にする創造的な営みに近い。
つまり、言葉を読む行為と言葉を書く行為は全くの別物だということになる。

そうして考えていくと、自分の感想を言葉にする以上、書く行為は止めてはならないのものなんだと気づかされる。

作品の感じかたは次の瞬間には変わっている曖昧なものだ。映画、小説、絵、音楽、詩、作品そのものに変化はないが人は日々変わっている。昨日はこう感じたから今日もそう感じるとは限らない。

外側にある言葉の世界に閉じ込められても、その世界に淡々と付き合っていき、満足するまで言葉を書き続けることが人にできるたった一つの精神的営為なんだと思う。
曖昧なその瞬間を書き残しまた次の世界へと踏み出していく。そのときには既に僕は前の「僕」でなくなっていて、その新たな自分を書き残すため、また言葉を書いていく―――外側にある言葉を自分の世界に閉じ込めるために。

おそらく、この工程に終わりはなく、始まりもないのだろう。
ただ見知らぬ何事かによって進行し、突きつけられた何事かによって崩れ去り、何一つ意に介さぬまま幕を下ろすのだ。つまるところ、世界と言葉は、手に余るようにできている。


僕は僕の見えている範囲でしか作品を語ることができない。自分の考えだって同じだ。だから語れる範囲だけはしっかり語っていきたい。それが僕のできる唯一のものだから。僕にしか見えない唯一の世界だから。

世界と言葉に、向き合い続けようか。