物語好きのブログ

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自ら不正解を選択する勇気

子供の頃、僕はあらゆる問いに不変の「正解」があると思っていた。
あらゆる現象、あらゆる問題、あらゆる悩みに対して必ずそこには一つの真実があって、それは誰かを救うものになるんだと信じていた。そう信じて、ひたすら問題に対して答えをだそうと考え続けてきた。
しかし、成長するにつれ客観的な真実はないんだと気づかされた。
この世に正解はなく、救いはないんだと。
そう気づかされた。だけど、それでもまだ諦めきれない「自分」がまだ心の中にいた。
その「自分」というのは臆病な「自分」だった。おそらく、「正解」を見つけることで安心したかったのだ。つまり、不正解を引くのが怖かったんだと思う。不正解というよりも、未知への可能性に進む選択ができない、といったほうが正しいのかもしれないが。
あらゆる選択が怖かったし、全てが危険なものに見えた。
人は目に見えないものに恐怖を抱く本能を持っている。その本能。未来からの重圧。過去からの負荷。そういった目に見えない圧力が僕に選択をさせないのだ。
―――僕は、失敗を恐れていた。
だが、その失敗を恐れるあまり選択をしないでいると、大きな後悔をしてしまうことになる。
過去の僕は選択をしない人間で、選択をしなかったのが理由で大きな後悔をした。
その後悔は僕の感情を静かに奪っていく残酷な後悔だった。
それは自分の暮らす温かい世界を失ってしまったような感覚だ。目に映る木の葉や、見上げた空や、弓なりに曲がった銀色の月も、どこか色褪せてしまった。海のように広がる否定の心が僕を支配していたのだ。


僕は身をもって痛感した。恐れのあまりに選択をしないでいる方が、後々の自分を苦しめることになるのだと。

今はなるべく選択をしようと勇気を出して、おもしろい方へと選択をし続けている。
気がついたのだ。深く考えずに選択をしても、思いのほかなんとかなるのだと。
今も選択をする時の恐れは消えない。それでも、その恐れを今は受け入れている。
もちろん間違った選択をして失敗もしている。だけど、どこか爽快な気分なんだ。
おもしろい方の選択をする姿勢で生きていく、あるいはおもしろいことができる場所をみつける姿勢というのは僕にとってなかなかに大事なもので、常日頃からそういう姿勢であろうと今も尽力している。

過去にこだわって何もできない、あるいは未来を憂う余りに立ち止まるのは愚かだ。
だが、最も愚かなのは選ぶのを恐れ、流され続ける弱さを抱えたまま沈むことだ。
だから僕は挑戦していきたい。あらゆる問題に。

選択を迫られたときにその結果を決めるのは、何を選んだかではなく、どう選んだかでもなく、「選ぶ」という決定ができたか。その一点のみなんだ。