物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

生きるとは、物語を書くこと

f:id:asagiri1:20150412004644j:plain
人は誰もが生きている上で物語を書いている。この「書く」という行為は決してペンで記述したりキーボードを打鍵するという意味ではない。

それは「日々を積み重ねていくこと」。笑い、楽しみ、怒り、悔しさや悲しみに涙し、喜びに心震わせる。そんな小さな日常。その時点でもう同じなんじゃないかと、物語を書いているんじゃないかと、僕はそう思うのだ。

そのありがたみがさも当然のようにあるから、それがとても大事な価値であることに気づいていない人もいる。失ってみて初めてその価値がわかるのだと理解していても、大事な価値に目を向けないのだ。

たしかに、日々を積み重ねていく行為が辛くて苦しいと感じるときもある。この世界では楽しいことなどなく、目新しい変化などなく、決められた時刻の電車に乗って、いつもと同じ日常を過ごし、変化がないまま自宅に帰る。ただ同じ日常の繰り返しでそこに意味を見出せないままだったり、あるいは人とは違う欠陥を抱えていて人生そのものに嫌気がさし、積み重ねに意味を見出せなかったりもする。


だが、自分の見える世界でしか世界を認識することができない、あるいは自分の見える世界こそが全てだと認識すると、それは結局自分を苦しめる行為にしかならないのだ。

目の前には辛い現実が常にあり、きっとそういう思いで胸がいっぱいになっているのだろう。しかし、現実は一つではない。ある哲学者は「事実はなく、解釈のみがある」といった。現実は一つではなく無限に解釈することができるのだ。そうわかっていても辛さは変わらない時もある。今は袋小路に迷ったまま空しさだけが心を支配するときだってあるだろう。けれど、それが高い場所へと繋がっている階段なんだと思えば少しは楽になるのではないか。あるいは自分がもつ一番大切なものに熱中できれば少しは楽になるのではと、僕はそう考えている。


以前、僕は考えていた。「自分の中で一番大切なものはなんだろう」と。だけど、僕には大切なものが多すぎたし、少なすぎた。どうやっても答えがでなかった僕は、一度大切なもの全てを頭の中にある真っ黒な箱の中に詰め込んだ。そこから一つずつ、一つずつ、大切なものを捨てた。「捨ててもいいのではないか」そうチラリとでも思ったら迷わず捨てた。そうやって捨てていき最後の一つに残ったものだけ、その真っ黒な箱に大事にしまうように決めたのだ。

あらゆるものを捨てた。苦痛を伴うものだった。「本当にこれで正しいのか」脳裏に掠め、蝕んだ。でも、これしかないんだと信じていた。

残ったものは一冊の真っ白な本だった。その本には何も書かれていなかった。本のカバーは白く、本を開けても最初から最後まで何も書かれていない。
その本がなぜ大切なのか、僕にはわからなかった。わかっていたのは「これだけは捨ててはならない」と直感が訴えかけてきたことだけ。


今も、真っ白な本がなぜ大切なのかわかっていない。いや、わかっている。ただ言葉にしないだけで。

だから僕は積み重ねていく。小さな日常を。喜怒哀楽に満ち溢れたそんな小さな日常を。その真っ白な本に記していく。僕の大切なものを。