物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

世界の拡張

友人がオススメする小説や映画はなるべく見るようにしている。それは自分のために非常に役に立つからだ。
自分のアンテナに自信があるのならば人に頼る必用はないと思うが、自分が見たい、読みたいだけの物語だと目には見えない偏りが生じて世界の拡張ができないのではないかと僕は思っている。
決してこの偏りが悪いとは思ってはいない。むしろ自分という人間を深く掘り下げるためには必須だと思う。
しかし自分が選んだ物語だけだと、自分を深く掘り下げることはできても広げることはできないのではないか。つまり視野が狭いまま、ひたすらに自分の世界に閉じこもってしまうのではないかと危惧している。
ようするに結論をいえば、もったいない。

昔の僕はそれに関して身をもって痛感した。当時の僕は自分のアンテナ、感覚こそが全てだと、良書に巡り合えなくともそれは運命なんだと、一種の開き直りをもってして本を探して読んでいた。誰の意見にも耳を貸さず目を向けず、自分の世界に没入しきっていた。その時はたしかに良い本にも巡り合えたし、悪い本にも巡り合えた。それは今も僕の中で大きく頼りになっている。
だがそのまま続けてくると、どこか新鮮な感覚が薄れてくるような、頭の中が飽和するような感覚が脳に押し寄せてくるのをひそかに感じていた。
このままではマズイのではないか。そう危惧した僕は、試しに友人がオススメする本を読んでみることにした。
タイトルは「涼宮ハルヒの憂鬱
涼宮ハルヒの憂鬱
今となってはライトノベルの最高峰といっても過言ではない。しかし当時はまだ手をつけることができないままでいた。いや、僕の感覚では読む必要がないと勝手に判断していたといったほうが正しい。
「表紙の女の子も可愛いし、せっかくだから・・・・・・」と訝しげにしつつも手にとって読んでみた。
衝撃を受けた。
こんな小説があったのか。こんなにも興奮させるのか。
読み終えたあと、電話で寝ていた友人を叩き起こし、全巻を貸してもらったのは今でも良い思い出となっている。(友人には申し訳ないが)
その時の僕は小さな世界が拡張されたような、一種のパラダイムシフトが起きていた。
そしてそれと同時に震え上がるほどの恐怖を覚えてもいた。「僕は他にもある面白い物語を見逃したまま、死んでしまうのではないか」と。
小さな世界のまま、深く深く掘り下げていったまま死を迎える。それはそれでありだとは思うが僕にはそれができなかった。
もったいない。
それからというもの僕は友人からオススメされた小説をなるべく読むようにしている。
友人との話のネタにもなるし、良いことづくめだ。