物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

ブログを始めて半年が経過した

半年が経過した。ものすごく嬉しい。
ブログを始めた当初は正直ここまで継続できるとは思っておらず、できて数ヶ月、最悪1週間くらいとタカをくくっていた。
どういったわけかもう半年だ。継続できる要因として更新ペースがまったりしているのも要因にはあると思う。書きたいときに書き始められ、終わりたいと思えばいつでも終わらせることができる自由さが、僕には合っていた。誰かの指示でやらされていたのなら、とうの昔に終わっていただろう。

誰かからの反応があったのも継続できている要因に入る。
他のブログさんにも書いてあったが、アクセス数云々より、純粋なコメント、はてなスター、コメントつきのブックマークのほうが嬉しさがあった。おそらく、そこに「人」が感じられるからだろう。当分先の予定にはなると思うがアクセス数も気にしながらやっていくつもりもある。今は好きなように書かせてもらうが。

考えていること

記事をストックしようと考えている。今までは記事を貯めることなく、その日に書いた記事をそのまま投稿するスタイルをとってきた。記事を寝かせてからのほうが誤字脱字は減らせるのだが、記事を書ききった勢いのままついつい投稿してしまう。

ストックをしようと思う理由は二つある。

6月の中旬から2ヶ月間、おそらく僕は忙しくなる。忙しさを理由に何も書かなくるのは嫌なので、今のうちに記事を貯めようかなと考えているのだ。
一時更新ストップという形にしてもいいのだが、形だけでも継続していきたい願望がある。それに一回更新をストップするとそのままズルズル投稿しなくなるのは僕の性格上目に見えている話だ。だから更新ストップはなるべく控えたい。
ストックができなかったら、ただ日常を書き綴ろうと予定している。


そして、ストックできたら記事の「次回予告」をやってみたい考えもある。記事の最後に次回の記事のタイトルと冒頭を書くというスタイルだ。
「それってなんの意味があるの?」と思うかもしれない。
結論からいうとただの自己満足である。ドラマやアニメ等、毎回エンディングの後に次回予告が入る。それにほんのりと憧れて、それをブログでもやってみたいというただの好奇心ゆえの考えだ。文章でできることは限られるので、タイトルと冒頭を書くのみだとは思うが。



話は変わるが最近物語の感想を投稿しなくなった。一応個人的に書き残してはいる。しかし「少しの間」投稿は止めておこうと判断した。
理由は前にも書いたが他にも理由はある。この理由についてはまた今度記事として書く予定だ。



今週読んだ小説

カズオ・イシグロの「日の名残り」を読んだ。

日の名残り (中公文庫)

日の名残り (中公文庫)

いつか記事として感想を書きたい。凄かった。僕好みの物語。


朝井 リョウの「桐島、部活やめるってよ」を読んだ。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

高校生達の純朴な心理が繊細さを保ったまま書かれていた。
桐島ぁ…

今週観た映画

物語の展開が熱い。

ダラス・バイヤーズクラブ [DVD]

ダラス・バイヤーズクラブ [DVD]

悪法もまた法なりってね。

以上

これからも継続していきます。
読んでくれてありがとうございました。

僕が映画を観る理由は「夢」にある

僕が映画を観る理由は一つ。夢をそのまま味わえるからだ。
正直にいってしまえば楽しみたいだけならもっと他の趣味をしたほうがいい。笑いたいのなら他にも方法はある。泣きたいのも同様だ。それらは別に映画でなくとも経験できる。僕は意味も脈略もモラルも映画に求めていない。
僕が求めているのは「夢」だ。

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僕は「無意識の夢」こそが映画の本質だと考えている。
映画の魅力はなんといっても映像だろう。スクリーンから映し出される物語は僕に例えようのない高揚感を僕に突きつけてくる。臨場感とでもいえばいいのだろうか。他の作品群とは少し異なる映像ならではの「生命」がひしひしと伝わってくる。おそらく、「そのまま」訴えてくるからであろう。映像媒体の優れた点はその伝達力にある。続けざまに動く映像。身体に直接鳴り響く音。そういった「生命」そのままを観る者に伝えてくるからこそ物語に魂が宿り、直接手で触れているような錯覚さえ覚える。これは映像で表現される物語のもつ特権といえるだろう。


面白い映画というのは観ている者の位置座標を完全に見失わせる力を持っている。今までに見たことのない「世界」の映像を自分の心に持つ「何か」のように感じ、子供の頃に憧れた夢だと感じ、くだらない妄想だと感じ、その瞬間僕という意識はこの世から消失し「過去」や「未来」や「現実」から隔離された混沌とした世界に溶けていく。
この奇妙な感覚。僕はそれを「無意識の夢」と捉えている。この浮遊感が欲しくて僕は映画を観るのだ。

そして僕は本当に夢を見るときもある。

―――寝ているのだ。

観ながら寝ちゃう感覚って気持ちいいのだ。


「しっかり映画を観ろよ!」という突っ込みもあるかもしれないがこれがまた気持ちいいのだからどうしようもない。
特に暇なときにぶらりと立ち寄るミニシアターなどは殆ど寝るためにいくようなものだ。さらにそれがゴタール映画ならば入館の時点で睡眠の準備に入る。(ゴタールが好きな人から石を投げられそうだ)
ゴタール作品―――特に「気狂いピエロ」を観たことがあるなら人なら同意してくれるも人もいるはず―――あの心に沁みる会話、ゆったりとした世界。まるで睡眠導入剤でも投与されたかのようにすやすやと眠りに落ちてしまう。


こんなことで「物語好き」と名乗っていいのかとも思うのだが僕の考えでは睡眠もありだ。
そこまで「観なきゃ!」と気負うより、乳母車に乗せられた赤ん坊のような感覚でゆったりと映画を観たほうがいい。それで寝てしまったのなら「夢」をみたことになるし、面白かったとしても「夢」をみたことになる。
共通して「夢」をみられるのが映画の魅力なのだ。


「映画とは寝てもいいもの」と知ると様々な映画にチャレンジできる。難しいからといって回避していた映画や、つまらなさそうと直感した映画ですら簡単にチャレンジできるのだ。そしてその中から自分にとっての「夢」を発見できるのもまた映画の醍醐味といえよう。

そして「夢」は人の内面に大きく作用する面がある。

映画を観ても忘れてしまい嘆いたことがある人もいるのではないのだろうか。どんなシーンでどんなストーリー展開か、綺麗さっぱり忘れるという現象だ。
だけどそれは「忘れていない」
意識上は霧消しているかもしれない。しかし必ず無意識に残っている。詳しい説明は省くが、人が忘れたと感じていても実は自分の深層に取り込まれているのだ。それは自分の心象風景として形成されいつまでもそこに残り続ける。

その積み重ねが最終的には「夢は現実を凌駕する」ものになる。
現実を崇めるつもりも夢を崇めるつもりも露ほどにもないが、現実が内包する残酷な暴力には夢で均衡を保ち更には現実を凌駕し人を救うのだと信じている。


夢の映画といえばこれ。クリストファーノーランの「インセプション

映画で引き出せる映像と浮遊感を最大限に生かしており、近年観た映画の中でもかなり秀逸な作品に入る。こっそりオススメしておく。
インセプション [DVD]

世界と言葉

しばらく悩んでいた。自分の「感想という名の世界」を言葉にしていいのかという問題に。

一つ前の記事でも少し書いたが、作品の感想をそのまま言葉で表すことはできない。表現には限界があり、どう足掻いてもそれは分離され、独立する。

その現状―――自分が感じている感想と言葉とが、まったく同一ではない形状をしているのが悩ましかったのだ。
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自然の美しさと川の流れ「リバー・ランズ・スルー・イット」 感想

雨が地を固めやがて岩になった。それは五億年も前のことだ。
だがその前から岩の下には―――神の言葉があった

自然と芸術。それらは互いに相互しあい、限りない神秘を形成する。描かれるのは「完成されたものの美」だ。どこまでも美しく、永遠に消えぬ安心を与えてくれる。そこでは不変であるノスタルジックな幻想が人々を癒す。
しかし、人の世は芸術ではなく、永遠の命を持つことはない。
本作「リバー・ランズ・スルー・イット」はそういった情感、感慨を抱かせる作品だった。いわゆる「エンターテイメント」性のある映画ではない。描かれるのは自然と調和。そしてその中を緩やかに流れ行く「川」である。

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元祖怪獣酒場にいってきたので感想を書く

ゴールデンウィークということもあり、友人3人と元祖怪獣酒場にいってきた。この怪獣酒場、普通の酒場とは違った趣向となっている。
実はウルトラマンに出てくる怪獣が集まる(という設定の)酒場なのだ。なかなかにカオスな空間だった。僕自身、怪獣についての知識が皆無に等しく、楽しめるのか不安だった。しかし、どこか昭和の良い雰囲気が店内に満ちていて今とは違う時代の雰囲気を存分に楽しめた。従業員のノリ(悪役の設定)もなかなかに面白く存分に楽しめて、なおかつ料理も美味しかった。
写真をブログに掲載していいとの許可をいただいたので、紹介も兼ねつつ日記として記録する。 
(写真が上手に撮れていなかったので、そこは許してほしい)

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自ら不正解を選択する勇気

子供の頃、僕はあらゆる問いに不変の「正解」があると思っていた。
あらゆる現象、あらゆる問題、あらゆる悩みに対して必ずそこには一つの真実があって、それは誰かを救うものになるんだと信じていた。そう信じて、ひたすら問題に対して答えをだそうと考え続けてきた。
しかし、成長するにつれ客観的な真実はないんだと気づかされた。
この世に正解はなく、救いはないんだと。
そう気づかされた。だけど、それでもまだ諦めきれない「自分」がまだ心の中にいた。
その「自分」というのは臆病な「自分」だった。おそらく、「正解」を見つけることで安心したかったのだ。つまり、不正解を引くのが怖かったんだと思う。不正解というよりも、未知への可能性に進む選択ができない、といったほうが正しいのかもしれないが。
あらゆる選択が怖かったし、全てが危険なものに見えた。
人は目に見えないものに恐怖を抱く本能を持っている。その本能。未来からの重圧。過去からの負荷。そういった目に見えない圧力が僕に選択をさせないのだ。
―――僕は、失敗を恐れていた。
だが、その失敗を恐れるあまり選択をしないでいると、大きな後悔をしてしまうことになる。
過去の僕は選択をしない人間で、選択をしなかったのが理由で大きな後悔をした。
その後悔は僕の感情を静かに奪っていく残酷な後悔だった。
それは自分の暮らす温かい世界を失ってしまったような感覚だ。目に映る木の葉や、見上げた空や、弓なりに曲がった銀色の月も、どこか色褪せてしまった。海のように広がる否定の心が僕を支配していたのだ。


僕は身をもって痛感した。恐れのあまりに選択をしないでいる方が、後々の自分を苦しめることになるのだと。

今はなるべく選択をしようと勇気を出して、おもしろい方へと選択をし続けている。
気がついたのだ。深く考えずに選択をしても、思いのほかなんとかなるのだと。
今も選択をする時の恐れは消えない。それでも、その恐れを今は受け入れている。
もちろん間違った選択をして失敗もしている。だけど、どこか爽快な気分なんだ。
おもしろい方の選択をする姿勢で生きていく、あるいはおもしろいことができる場所をみつける姿勢というのは僕にとってなかなかに大事なもので、常日頃からそういう姿勢であろうと今も尽力している。

過去にこだわって何もできない、あるいは未来を憂う余りに立ち止まるのは愚かだ。
だが、最も愚かなのは選ぶのを恐れ、流され続ける弱さを抱えたまま沈むことだ。
だから僕は挑戦していきたい。あらゆる問題に。

選択を迫られたときにその結果を決めるのは、何を選んだかではなく、どう選んだかでもなく、「選ぶ」という決定ができたか。その一点のみなんだ。