物語好きのブログ

映画や本の感想、自分の考えを書いています。 

再開と文章を書くことについて

しばらくの間諸事情が重なりブログから離れていた。やっと落ち着いてきたということもあり、継続を再開しようと思う。今回は書けなかった鬱憤を晴らしていきたい。


離れていたとはいうものの、心のどこかにブログで文章を書きたい意識があった。頭の中で文面を展開し推敲を重ね、忘れたころにまた同じような文章を構成している自分がいた。
最近までは誰かの指示、あるいは目に見えぬ流れに突き動かされ、ブログ外での文章を書くことが増えて少し嫌気がさしていた。それはそれで受け入れてはいるはずなのだが、どこか「自由」からかけ離れている感覚が脳裏に影を潜めているのだ。


一応、ブログを書き始めて少ししてから日記も書いてはいる。しかし日記だけではあまり満足がいかない。ブログと日記とで少し楽しみ方が変わるからだ。
日記ではどちらかといえば自分の抱くかなり強い苦しみや、ネガティブな感情を主に書き、ブログではどちらかといえば少しだけ明るくなれるような内容を主に書いている。もちろん、ブログにだって暗い話を書いたりはするが余りにも真っ黒な感情や自分が感じるかなり強い苦しみや怒りは書かない。
なぜ日記とブログで分けてかいているのか理由は二つほどあるのだが、まず一つ目に僕の個人的な考えとして、「強い苦しみや暗い感情は自分だけで味わい楽しむもの」という考えがある。


自分でいうのもなんだが、僕には「強すぎるネガティブな感情を独占したい」という奇妙な欲をもっている。他の人にそんな話をしたことがないので、他の人も同じような欲を持っているのかもしれないけど。

僕の中では暗い感情を日記に書きなぐり、味わい、戦い、楽しむのが一つの趣味のようになっているみたいだ。
そして、もう一つに「感情は伝染する」という考えがある。
ネットで公開された文章は誰でも閲覧でき誰が見るか分からない。その中で余りにも黒い感情が綴られている文章を読むと感情そのものが伝染してしまう。
他人のネガティブな感情を味わいたい人もいるとは思うのだが(僕もその一人かもしれないが)あまり良くないことのような気がする。

というわけで日記とブログで心のバランスをとりつつ、文章を書くのが僕にとって最適だったりする。他にも文章を書く媒体を扱ってはいるものの、完全に自己内で完結する場所はこの二つだ。

その二つは大切な拠りどころだ。軽く依存しすぎているきらいもあるが、その自覚があるだけまだましであろう。

今は何も考えず文章を書いているが、その感覚が楽しく、落ち着く。乱れが形となり、心が穏やかになる。やはりこの感覚は大事にしていきたい。


こうして文章を書いていると、少しずつ頭の中の乱れが納まってくる。
一つ書いた文章が次の文章を呼び起こし、広がる思考が言葉となり、文章として収束していく。書くというのはその連鎖でしかなく、調子が良いと先に綴られるべき言葉たちが乱暴に脳裏を駆け巡り、キーボードの打鍵すら全く追いつかなくなる。自己が希釈され、言葉そのものになっていくような感覚だ。そうなると僕はその流れに身を任せ、ただ無心でその言葉を探り当てるだけになる。いや、僕が言葉を手繰り寄せるのではなく彼らのほうが僕という手段を探り当て、ようやくこの世界に顔を出すことができるのだといったほうがしっくりとくるかもしれない。
狂いそうなほど揺さぶる眩暈が絶えず自我を振動させ続けているような感覚が続き、距離や時間さえも切り離された純粋な持続だけがそこに現れ、言葉たちは無慈悲に競い合う。海馬から始まりシナプスを駆け巡り、頚椎の直線を抜け指先の神経へと続く最終コーナーを駆け回る。その先に終着点はなく、永遠に回帰し続ける現象でしかない。
その瞬間、僕は深海の底に横たわっている。光さえも届かない深淵の中、奔流はこちらの戸惑いなどかまうふうもなく騒ぎ続ける。「彼ら」はカタチになることを求めて止まない。それこそが「彼ら」の存在意義であり、唯一無二の存在理由だからだ。「彼ら」とはなんの形容すらあたえられていない「何か」だ。虚構でも物語でも情動でも好きなように名づけてかまわない。

そこにはおそらく全てがあって、そして、何もないのだろう。

全てが正しく、全てが間違った世界。その世界にある「彼ら」を、気がつくと僕は認めるしかなくなる地点に到達している。受け入れるしかなく、抗うことすらかなわない。そしてこの微熱にも似た興奮は、まどろみの幕が広がるように、訪れたときと同じようにして立ち消えてしまう。突きつけられた情景を静かにかき消してしまうまで、何かが立ち去った際に漂う朝の霧を目の当たりにさせられたような悲しみに指先はただキーボードの上で呆然として立ちすくむ。目的地を失った可能性はすっかり別の存在へと形を変えてしまう。諦めて僕はため息をつき、冷たくなったマグカップを手にとり、ほんの数十分前までそこにはなかった記号の群れを画面にスクロールさせて検めていく。意味不明で支離滅裂な文章。そんな文章を見ると物悲しくなる。でもそこには確実に何かが切り取られている。明確な形となった言葉を損なわないように慎重に整理を試みる。目も眩むような自己主張の激しい言葉たちを落ち着かせ、乱反射する文脈に道筋をつけていく。
そうしていくうちに、必ず脳裏に一つ疑問が湧く。僕自身が自分だと確信しているもののうち、はたしてどこまでが言葉でできているのだろう。
だが問いそのものが言葉なるもので成立してしまっている以上、答えなど最初からみつかるはずもなく、見つけるつもりもない。行き場を見失った疑問符だけが寄る辺もなく宙に漂っている。疑問符を消し去ろうとしてもまた新たな疑問符が湧き上がる。ズレた疑問は本来の線を辿ることなく、見当違いな方向へと移ろいでいく。そのたびに毎回気づかされる。どの言葉も初めからそこにあったわけではない事実に。思索された結論やカタチとして残る感情さえも僕らは言葉なるものを用いてやっとのことで捕らえている。自分自身のことでさえこの記号なしには上手く理解することがかなわない。
そう認識すると自我を取り巻く厚さのない膜と化した言葉たちの想像は一層強固なものへとなっていく。明確な輪郭を持ち、混沌の相をたたえ、口では言えないけれどはっきりと意識する。―――「彼ら」とは静的なものなど何もないこの世界を形づくるものなのだ。

バラバラで曖昧だが、これからも興味のあることを書いていく。それしか僕にはできないのだから。

好きを貫く必用はない

ほんとうに自分の好きなものはどこにもない。
それはその時、空間、気持ちによって左右される霧のようなモノでしかなく、
数学の公式のように美しく定義できるようなものではない。



好きなものを定義しようとして「ぼくは~が好きだ。理由は~だからだ」とカタチにしてしまうと、その言葉の牢獄に閉じ込められてしまう。
全ては流れ行く水のようなものだ。固定化させ、一貫性を維持する必要なんてどこにもなく、追い求める必要もない。
そもそも昨日の自分と今日の自分は生物学的視点からみても別物でしかなく、思考や感情、刻まれた記憶ですら移り変わっている。
今いるこの地点ですら宇宙の運動に巻き込まれており、静止していない。静止しているように見えるが、それは錯覚なんだ。
その中で固定化された「明確な感情」を求めることはこの流れゆく世界の中では自然ではない気がする。

ほんとうの自分を必死になって見極めようとするよりかは、ただあるがまま自分の持つ明確な意思と選択で生きていき、よくわからない衝動や入り混じった不可思議な感情を受け入れて、静かに己の足で歩いていくという選択もありだ。


よく人から「一貫性がない」といわれる。おそらくそうなのだろう。どちらかといえば僕はわざと一貫性のない状態を維持しようとしているのだから、それはそれで当然の話ではある。山登りが好きなときもあればサイクリングが好きなときもある。プログラミングが好きなときもあれば、物語が好きなときもある。テンポが速い音楽が好きなときもあればテンポが遅い音楽が好きなときもある。落語を見に行きたいと思えば見に行き、その次の日は美術館にいったりと、まるで一貫性がない。「一貫した思想が大事」といわれても、全てに当てはまるとは思えない。「自分がない」といわれても、ほんとうの自分なんてものはどこにもないのだから、どうしようもなかったりする。



本を読んでいても、そこに可愛い女の子話しかけてきたらあっさりと本を手放すだろうし、ストリートミュージシャンが心地よい演奏をしていたら、本来の目的をそこに置いて、しばらく足を止めるだろう。
その都度、その状況に応じて人はあらゆるものに興味を持つのだから、静的な、不動たる自分の好きなものを見出すなんて疲れるだけだ。
だから、「ほんとうの自分」や「ほんとうに自分の好きなもの」を、そんな幻想を追い求め、貫き続ける必要性はない。



「好きを貫け」という思想が現代では主流となっているが、好きを貫く必用はないと、僕は考えている。
そんな中、「好きを貫け」という思想を今の若者に突きつけても、若者は困惑するだけだ。困惑させ、「私とは何か」「私の好きなものは何か」という不確かな問いに答えを出そうとすることになる。

これは、「継続するな」と書きたいわけではない。
ただ、自分の「固定化された好き」というのはないのだと書きたいのだ。


常に自分は変化しているのだから「過去の自分が好きだったから、今も好きに違いない」と考えるのは、おかしいのだ。
もちろん、そういった「傾向」はある。
だからといって、それが全てではないのだと、僕はそう思うのだ。

継続七ヶ月目。今考えていることを三つほど書く。

月に一度の反省すら書くのが遅れてしまった。早いものでもう七月だ。

そろそろ蝉時雨でも聞こえてくるのではないかと期待する今日この頃。ここ数週間は身の回りの環境を大きく変え、なんとなく新しい気分で日々を過ごしてきた。どれだけ周りの環境を変えようとも自分というのは変わらないものなんだなと実感している。

それはさておき、今回も簡単に考えていることを三つほど書き残していく。

絶歌と表現の自由について

最近友人と「絶歌と表現の自由について」の話をした。会話をしていたとき、僕自身今も考えがまとまりきっていないと実感したので、考えていることをここに書き記す。


実をいえば僕はまだ絶歌を読んでいない。読んでもいないのに絶歌について語れるのかといえば疑問でしかないが、内容のだいたいの想像はつくので今は読むつもりはない。
僕のスタンスとしては「重大な情報であればあるほど知るべき」というスタンスをとっており、絶歌も読んでおいたほうがいいのかもしれないが今回は例外。


あと、絶歌に関しての諸情報や、例の事件に関する情報はここでは書かない。書くのは自分の考えのみ。



まず疑問だったのが、なぜここまで絶歌はメディアに取り上げられているのかという疑問だ。前科者、あるいは犯罪者が本を書いて世に出すのはそれこそ昔からあった話で、有名所を挙げるならば永山則夫の書いた「木橋」などもそうだ。少し前にも前科者の書いた本が出版されていた気がする。


やはりここまで取り上げられていたのは、少年法で重たい罪を免れたことへの不満、犯罪内容が異常だったのと、遺族への承諾がなかったことが理由になる。


少年法に関しては未だに納得がいっていない人が多い印象を受ける。一応、ここ十年の間で二回ほど少年法は改正されている。だが、まだ大衆が納得するほど充分ではないのかもしれない。


出版されるべき本だったのか

この本は出版されるべき本だったのか。
出版社側がもし「世に広める必用がある」「表現の自由」という大義名分を提示するのならば、本である必要性はない。別にブログでも代行は可能だ。なんなりと手段はある。
が、本を出版する以上、遺族の承諾を得る必用があったのではないかと思う。これは筆者の責任もあるが、編集と出版社の責任もあったのではないか、という印象。知識というのは必ずといっていいほど誰かを傷つける。特に今回の出版に関して、遺族が傷を負うのはわかりきっていた。
しかし、「表現の自由」という大義名分を借りて無理やり出版に至った印象を強く受ける。




政治やイデオロギーに関して特に「表現の自由」が適切に扱われる必用はある。大衆は知る権利を所有しており、情報は内密性を保つより公開していったほうが多角的視点から情報を判断できる。故にそれらに関してはどんどん公開していくべきだ。

では今回もそれにあてはまるか、といえば微妙なラインだ。


僕の結論としては「表現の自由を守るために行われる充分な努力がなされなかった」である。あたりまえといえばあたりまえの話。しかしそれが行われなかったというのも現実である。(行われていたのかもしれないが、不充分な印象を今のところ受けている)
本の規制や回収をするべきという意見もあるが本の規制はしなくてもいい。


あとこの本を読んで正義や義憤に駆られて行動を起こすのは危険だと書いておく。
この本は小説ではないのだから、そこまで感情的になる必要はない。悪を批判してればいいと考えているだけでは視点が単調になり、複眼的に思考することができなくなる(まぁあたりまえのことなのだが)


この本を読んだら多くの問いが生まれてくるだろう。故に考えるべき事柄はたくさんあるはずだ。肝心なのは浮かんでくる問いに一つ一つ冷静に付き合っていくことだ。

以上。いろいろ不備があるので加筆修正するかもしれない。

記事を貯めることについて

記事を書き貯めることの難しさを知った。
というわけでしばらくの間、どうすれば書き貯めることができるのかうんうんと悩んでいたところ、たまたまこんな本に出会った。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

これは論文執筆に関しての方法論が書かれているのだが、もっとざっくりといってしまえば文章を書く人全員に当てはめることができる。
なかなか目が覚める一冊だった。これからはもっと細かく習慣づけをやっていく。一日一時間文章を書くとか、三時間にするとか。

何かをオススメする行為は価値観の押し付けか


友人にある作品をとてもオススメしたくとも、強くオススメしすぎると逆に押し付けがましくなり、反発力が強くなって作品に触れなくなるというのがある。
好きな分野になるとどうしても「おすすめだよ!」とか、「これは絶対読むべき!」と熱くなってしまう。そして熱くなると引かれるパターンが多い。


結局のところ強くオススメするのではなく、選択権は相手に任せる形で「面白かったよ」と軽くオススメするあたりが最適なのではと思う。それで無理だったらスパッと諦めていく方が自分の精神状態も安定する。


「べき論」だろうと簡単にオススメしようとも相手によっては押し付けになってしまうので、どう足掻いても無理な部分はある。
しかし、「そこまで熱く語るのならば」と作品を手にとる人がいることもまた事実だ。
バランスの兼ね合いを意識しておくのが肝心なんじゃないかな。


少し長くなったのでここでとめておく。

海にいきたい…山に登りたい…

僕は雨の日が好きだ

雨の日は、なんだか楽しい気持ちにもなるし、悲しい気持ちにもなる。
比喩の表現として雨は涙で例えられる場合が多い。だからこそ悲しい気持ちを連想する場合もあるが、僕の場合は楽しい気持ちがそれを上回っている。

僕は雨の日は家でじっとするのが嫌だ。外に出て雨の音を聞き、自ら雨に打たれたいと心から望んでいる。だから実際に雨に打たれにいくときもある。もちろん一人で。

子供時代から雨に打たれることはよくやっていて、現在も継続中の一種の趣味だ。
そんな趣味を友人に話すと大抵はちょっと引かれる。それ以降、僕は誰にも雨が好きだと話すのはなくなったけれど。


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雨を感じているとき、様々な原風景が心に蘇る。つらかった思い出や、楽しかった思い出。田舎でみた黄金の風景もあれば山で見た闇の世界も。雨音が僕の中にある思い出を呼び起こす。



目を閉じ雨音を聞き続けると、どこまでも終わらない滴のリズムは、沈んだ心を揺さぶり楽しい気分にさせる。
雨音が一つの音楽となるのだろう。激しい雨音は激しいビート。優しい雨音は落ち着いたピアノの旋律のように―――僕はその音楽を体で感じたいから自ら雨に打たれるのかもしれない。



夜の雨空のとき、星空は見えないと思うかもしれないが決してそんなことはない。

そこには別の星空が顔を出す。

夜の雨空を見上げると、宙に引かれた雨の軌跡が街灯にぼんやりと照らし出される。
それはまるで宇宙にある全ての星星が、この世界に降り注いでいるような幻想を胸に湧き起こす。
あるいはその逆で、僕そのものが光となり、どこまでも広がっている宇宙を移動しているような幻想をも覚える。

僕にとって、夜の雨は星空なんだ。

その星空を体感するのが好きだから、雨が好きなのかと少し考える。
でもそこで思考を止める。言葉はいらない。その感覚を大事にしたいのだ。




僕に同情の言葉や、慰めの言葉はいらないのだろう。どれだけ相手が言葉を尽くそうとも、雨音のほうが静かに僕の心に響く。

言葉の存在しない世界なら、僕はどれだけ救われたのだろうか―――なんて妄想もしてみたり。

もうじき雨の季節も終わる。
今はこの季節をもう少し堪能しておこうか。

先入観について悩んでいる

僕は子供のころ、おとなになりたくて仕方がなかった。
おとなになって自分の好きなものを買い、何ものにも囚われることなく、自分の好きなように生きるのだと憧れ、夢見てきた。


しかし、今は逆に子供に戻りたがっている。

なぜなら、子供はどこまでも純粋で、何ものにも囚われていないからだ。

僕は大人になってはじめて気がついた。子供のころに憧れたものが、すぐ近くにあったことに。


大人の人は子供の意見をあまり聞こうとしない。聞いたとしても、それは話半分で聞き、そこから発想を得ようとしていない人が多いと感じる。


子どもは知識と経験が足りていない。それは大人と比べれば生きた年数が短いのだから当然といえば当然の話ではある。


だから大人は、子供には経験が足りないからといって判断をまともに聞こうとはしない場合が多い。

だが、子供にも勝っている部分はあるのだ。

子供が勝ってる点があるとするならば、それは先入観の点にある。

イギリス経験論の祖フランシス・ベーコンは、イドラ(先入観)がないほうが物事の本質に近づけると主張した。
たしかに、先入観がないという点では、子供の純真さが物事の本質に近づける。
子供の意見にはっとすることがあるのはそのためだろう。


そして、ベーコンは正しくものを見るために次の4つのイドラを取り除かなければならないと主張した。


ひとつ目は「種族のイドラ
これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じる。

ふたつ目は「洞窟のイドラ
これは窮屈な洞窟の中に入ってしまったかのように、教育や読書で得た知識や個人的体験によって生じる。

みっつ目は「市場のイドラ
これは言語によって生じる思い込みのことで、ネットや市場で聞いた噂話を信じてしまうようなもの。

最後の「劇場のイドラ」は、劇場で観たものに強い影響を受ける思い込みのことだ。


その主張について考えてみると、大人というのはどこまでも先入観に囚われていて、ある意味で、子供というのは何もわかっていないのにわかっている。


僕は今になって、そんな純粋さに憧れているのだ。

憧れているだけで、どうしようもないんだけれども。

この瞬間は戻ってこない。
進み始めた時計の針は不条理に歩みを刻む。決して、戻ることなく。


もしそれに近づける方法があるとすれば、ひたすら自分に問いかけ続けることなのかもしれない。

今はそんなことをじっくり考えている。

スマートフォンを使うスマートではない人

人間は自ら作り出した道具の道具になってしまった

作家のヘンリー・デイヴィッド・ソローが残した言葉が最近になって、身にしみる。

スマートフォンの普及により、多くの人がかんたんにインターネットとつながれるようになった。
今ではグーグル会長のエリック・シュミットが発言した「インターネットは消える運命にある」の真意がなんとなく僕にもわかりつつある。

ことわざに「灯台下暗し」とあるが、同様の状況になるのだろう。
あまりにも身近にありすぎてインターネットそのものが盲点となり、世界から溶けて消えていくのだ。


スマートフォンは便利だが危険でもある。なぜなら、人と話すのに疲れたら電脳の世界に逃げることができるからだ。

僕の友人の中に、僕と話していたり遊んでいたりしても絶対にスマホを触らないやつがいる。その友人は僕のことを思ってくれているのか、ただスマホに興味がないのかはわからないが、僕の中では共に過ごす時間を大切にしてくれている素敵な人だと感じる。その人と過ごす時間はとても貴重に思う。



それにくらべて僕はどうなのだろう。
誰かと一緒にいるとき、僕は話すことが苦手だからと言い訳にして、たまにスマホをいじったりする。今すぐ返さなくともよいメールの返事を送ったり、眺めなくてもいいツイッターのタイムラインを眺めたり…全然スマートではない。



最近、道具に使われてしまっている自分を意識するようになった。
いつの時代でもそうだが、僕たちの周りには道具が溢れかえっている。その道具を上手に扱っている人はどれだけいるのだろうか。
僕の周りでも、誰かといるときにスマホをいじる人がいる。観光地を旅行していたときに見かけた家族連れが全員スマホをいじって観光地をほとんど見ていなかったのには驚いた。その周りにいた何組かのカップルも同様で、「道具の道具」になっているその光景は、ある意味で恐怖だった。



必要以上に繋がりすぎた社会は、目の前にある現実を消失させた。
微妙な距離感こそが重要で、ブログ同士の静かな交流はその距離感を上手く保っているように見える。
その距離感でいいのだと思う。
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新しい情報に触れたくなる心情もよくわかる。人は新しいものに接触したがる欲求を持っていて、毎時更新されるニュースに触れたり、面白い情報が飛び交っていたり、スマホを使っていると簡単に時間を浪費することがくせになるのだ。
おそらく、内側から生じる「寂しさ」を遠ざけたくなるのだろう。




だけど、その寂しさや辛さを受け入れ、目の前にある現実に直視する必要もあるはずだ。
インターネットの虚構に浸ってばかりだと、自己がインターネットと繋がり、奇妙な全能感が人間を支配する。
しかしそれは錯覚で、突然自分が賢く、スマートになるわけではない。



どれだけインターネットが発達しようとも、相手と共有しているその瞬間に勝るものはないのだ。友人や家族と面と向かって言葉を交わすその瞬間を大切にしてみるのも悪くないだろう。

僕も大切にしていきたい。

虚構を想像する自由

少し前の話になるが首相官邸にドローンが落ちた。この事件を耳にしたとき最初に脳裏によぎったのは伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」だ。およそ七年前に刊行されたこの作品ではドローンを用いた犯罪がキーとなっている。真に迫った虚構は現実に肉薄するのだなと驚いていた。
つい先日からは火山やら地震やらのニュースをよく耳にする。これは小松左京の「日本沈没」をどこか彷彿とさせる。杞憂であるといいのだが。


こうして考えてみると「虚構の自由さ」というのは魅力的で、実際に起きるとまずい事態もフィクションなら表現できる自由さが僕はたまらなく好きだ。
しかし、おとなになるにつれ、多くの人は虚構を想像する自由が失われている気がする。


雨上がりには傘を剣と見立てて振り回し、見知らぬ小道では怪物が飛び出す想像を繰り広げる―――おとなになって、どれだけの想像を許さなくなったのだろうか。


恥も外聞もかなぐり捨ててもっと自由に想像をめぐらせてもいいんじゃないか。頭の中は誰にも除かれることなく完全に自分のものなんだから。気がついていないのかもしれないが、今もその情熱が息づいているはずなんだ。どれだけ時代を重ねようとも、精神が磨耗しようとも、その根本は変わらないのだから。


余りにも現実主義だと、虚構と現実の見分けがつかなくなり、冷静な判断ができなくなるのではと危惧している。
逆に、余りにも虚構主義だと、時には想像が妄想へと昇華し気がつけば五感が吹き飛ぶ場合もあったりする。僕の場合はそれがよくあるので気をつけないといけないが。


肝心なのは虚構と現実の境界線をしっかりと見極めることだ。


見極めたうえでしっかりと想像するのが、真の虚構になるのだと僕は思っている。
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そして、虚構を目指す想像力には「夢」もある。この世界には未だ見ぬ将来に向けて、大胆な仮説を提示する人もいるのだ。
小説家であり詩人でもあったエドガー・アラン・ポーが1848年に発表した散文詩ユリイカ」(散文詩とはいい難いが)には、ビックバン宇宙論へと繋がる思考が述べられており、ポーは当時問題視されていた「オルバースのパラドックス」(宇宙が無限に広がっているのなら、星は無限個存在することになり、夜空は昼間のように明るいはず)が解決することに気がついていた。

もし星が無限につづいているとしたら、銀河によって示されるような一様の光輝が、空の背景に現れねばならない。なぜならば、その背景のどの点にも星が存していないことは絶対にないわけだからである。それゆえに、こうした条件の下に望遠鏡が無数の方向に見いだす空所を証明する唯一の方法は、この目に見えぬ背景が非常に遠くにあって、そこから発する一条の光線も、まだ我々のもとに達しないのだと想像することである。

と書かれている。
そしてポーが散文詩を発表した81年後に「宇宙は膨脹している」(遠方の銀河は、地球からの距離に比例して遠ざかっている)というハップルの法則が発見された。
天文学者が数式で明らかにする80年以上前に、ポーは宇宙の起源を説明する理論の雛形を提示していたのだ。
そんな宇宙をも捉えるポーの想像力と直観には感動すら覚える。
こうして考えると虚構は非常に使い勝手がいい。現実に縛られることなく、多くの人々に自分の考えを提示することができるのだから。
そして僕たちもポーと同じように想像を巡らせることができるのだ。それが虚構であろうと、偽物であろうと、思考の中では自由に宇宙を駆け巡り、どこまでも遠くへ旅できる。


果てしない空を見上げて、自由に虚構を楽しむのもありだろう。